牧口常三郎の価値論を読む

古川敦 著

  • 教育革命から宗教革命

第一節「教育のための社会」を目指して

子供たちが幸福を掴むことが出来るように。

教師に笑顔がなく、慈愛もなければ子供たちが可哀そうではないか。

遺産は相続することが出来るが、幸福は相続することはできない。ノーベル

第二節「人生の究極目標」としての価値

価値を創造するための教育 ~ 美、利、善(価値体系)

真理(認識)と価値(評価)~ 認識せずに評価するな

政治、経済、科学技術偏重の社会にあって文化、芸術の次元である美の価値を大切にして広げる事。富貴、財産、名誉、地位などは幸福の要素ではあるがこれは、他者との比較に基ずいて一時的かつ表面的な自己満足に終始する幻のようなものである。自分だけ良ければというエゴイストではなく、全体人間ともいうべき俊逸の育成こそ教育の本義である。(池田先生の指導)

第三節「民衆賢人運動」に先駆ける。

日蓮仏法との出会い。近代日本の国家主義的教育がアジアの人々までも苦しめてきた。宗教の目的も本来民衆のためにある。人間を救済するための宗教がいつしか人間を縛るものとなった。しっかりした教育を受けていれば宗教の教義も聖職者の行動も正しい判断ができる。

日本の精神風土の大改造

地元の有力者の子供を特別扱いしなかったなどの理由によって、権力者たちが理不尽な介入をして、いわれなき仕打ちを受け何度も左遷されている。

現在でも多くの人が、官が上で民は下だと思っている。公僕が尽くすべき民衆を見下して「主」として存在すべき民衆が官僚や政治家などに頭を下げている。卑屈にして脆弱な精神土壌を根底から突き崩す事にあった。

「長いものに巻かれろ」「自分の意見を堂々と述べる勇気がない」「権威の言いなりになり、都合が悪くなると沈黙して闘おうとしない」。いとも簡単に世間の噂に踊らされる。

*「人道的競争の時代を開く」

第一段階  軍事的競争の時代・第二段階  政治的競争の時代

第三段階  経済的競争の時代・第四段階  人道的競争の時代

国家は、人民を支配することではなく、人道の完成にあたるべきである。

「日本の島国根性」について ~ 「村の文化」

「度量が狭く、排外的、自惚れが強く、小さな境涯で満足する、自分勝手で独りよがりな行動をする」。目先の安楽を手放そうとしないで保守的で古い習慣を改めず、一時逃れを繰り返す。人の足を引っ張り貶めようとする。小さい問題で争いあい、外国人に対しては尊大だが内心では疑い深く恐れている。

「人間の生活様式」

1、人に頼る生活 2、独立的生活 3、貢献的生活

「正視眼の生き方」(創価教育学会の綱領)

1、個人主義の利己的集団(近視眼的世界観)に非ずして虚偽なる全体主義(遠視眼的世界観)にも非ず、真の全体主義の生活の実験証明をなす。

2、営利を目的とせずといえども、最大の利善を(法華経の信仰)通し、異体同心、共存共栄の生活に革新できる。

3、化他によって自行に励み、生活革新の実証をなす。

4、触らぬ神にたたりなしとは、悪魔、悪人に対する事であり、善神、善人には触らねばかえって損でありたたりがあるといえようか。

5、折角の入信でも、共に住するに堪えざる者(増上慢)

*牧口先生は、自らの価値論を日蓮仏法(妙法)への梯子段であるとした。

実践の面では、実験証明の活動(信心体験)をもって示し、それでもだめなら講演で呼びかける。しかしほんとうに納得を得るためには少人数での学習会や座談会が有効であった。

第二章、「精神の闘争」へ挑戦

第一節「大善生活」への道

日蓮仏法の実践(自行化他)が最大善なりと結論する。大善に反する小善や中善は大悪につながる。依法不依人、無慈詐親是彼怨也、為彼除悪是彼親也

一念三千の法理が価値論の究極である。

国家より人間を優先せよ。 ~ 本来人間が上であり国家は下である。

民衆が「主」であり権力が「従」である。学問と人生、宗教と生活は密接な関係にあり、無関係であってはならない。

第二節「民衆救済の根本原理」 ; 相対的な善(科学)と絶対的な善(宗教)

「価値判定の標準」

悪人の正体 ~ 私益のために宗教を利用し、信徒から搾取する者。勇気のない傍観者、大悪に反対しない者、極悪と闘おうとしない者。

極善悪(指導者層の極悪)高官、高位にドグロをまいて動かず、賢善有徳の姿をしながら、大善を怨嫉し軽蔑して大悪に迎合し加勢し自らの地位を守り現状を維持する事のみに力を尽くしている。「高僧、大徳、智者、学匠」

高い地位にいて、善人のふりをしながら正義の人を嫉妬し、権威にへつらい、権力に取り入って正義の民衆を馬鹿にする。生活を無視する為政者には、その存在価値はない。“仏法によって悪道に堕ちるものは大地微塵より多く、正法にて成仏する者は爪の上の土より少ない。”

半狂人格者たちには心せよ!

平常の普通生活に於いては少しも狂ったところがないどころか、かえって気が利きすぎて買いかぶられるくらいであるが、ひとたび自分に利害が絡んでくると、狂暴性を発揮して恥も外聞も顧みなくなる。

一方を過大評価して片方で過小評価したりして、正当な判断が出来なくなる。

判断基準が自分の利害であるため、同じことを一方では肯定したかと思うと他方で否定したりする。これでは社会では通用しないし信用されなくなる。

こうした人間は、好き嫌いで簡単に世渡りが出来ると考えるから、時には傍若無人の振舞いをするので危険千万なり。いつの時代にもこの様な半狂人格者がいかに多かったかがわかるだろう。大聖人仏法(妙法)を実践している人に出会うとそれまで隠れていた狂態が現れてしまうのである。ゆえに真の大善である妙法に出合うと悪鬼その身に入るという本質が鏡に映しだされるように浮き彫りにされ訳もなく抵抗する。人間が福徳を積んでいくには、善の行動をしなければならないのは言うまでもないが、同じ信仰者の中でも自分だけ良ければといった個人主義的な信仰であってはならない。

第三節「一生成仏」の方程式

*斉藤正二博士

宗教というものは、その価値体系は先人たちに教わって初めてその重要性がわかる様になる。師の教えを信じ、言われた通りに実践してその結果を確認してその法への信、不信を決める以外にない。それからなぜそうなるのかを学んでいくべきなのである「師弟不二」が宗教の魂である。戦前の学会は、初代牧口会長が「罰論」を表に折伏を開始された。日蓮正宗の僧侶たちは、学会が功徳と罰を明確に言い切ることに反対した。真の菩薩行をしなければ仏にはなれぬのである。小善生活の人には、決して魔は起きない。大善生活(折伏行)をやれば必ず魔が起こる。これを以て行者と知るべきである。

*もとより、宗教なき教育、信仰なき学問は、何のためとの問いを忘れていつ

どこで暴走するかわからない。又、教育なき宗教、学問なき信仰はいつの間にか多くの民衆をたぶらかし、人々を奴隷化し、狂信、盲信を強要しはじめるものである。「真理の認識と価値の創造」 ~ 人類普遍の原理

第三章、「創価革命」に生きる

第一節「正義の人材」を育成する

[人格価値]

1、いてもらいたい人 ~ 人々の結合を積極的に図る。

2、いてもいなくてもどうでもいい人 ~ 毒にも薬にもならない。

3、いてもらっては困る人~善意を装いながら民衆を騙す指導的立場の人。

* [人材の三要素]

1、確固不動の精神 (負けじ魂の人)   第一の要素

2、楽観主義の人  (信のある希望の人) 第二の要素

3、勇気のある人  (声仏事をなす)   第三の要素

* [人間の生き方]   (見分けのつく生き方)

1、強者にへつらい従い、弱者には傲慢となる。スパイのように偽り親しむのを処世上では当然と心得るタイプ。

2、正直であり誰からも悪く言われない、自我独楽の弱い小善者。

3、自己のみの安定に満足せず、正義のためには敵をも恐れず、心にもない

御世辞は言えず、損と知りつつ偽り親しむことのできないタイプ。

*因循姑息な考え方~「臭いものには蓋」「長いものには巻かれろ」

第二節「善の連帯」を拡大する  [主役は民衆である]

聖職者は必ず腐敗する。それが歴史の常である。

もし信心していなかったならば(学会に入っていなかったら)私も善良なる友人、知人のように、なるべく周囲の機嫌を損ねぬように、悪いことを見ても視ぬふりをし、言いたいことも控えめにして、人に可愛がられなければ損であるという主義を守っておれたであろう。

善なる力を結集せよ!

悪人は、善人よりも自己防衛の本能からか、他との協力や結託を見事なまでにやりこなす。善人は、いつまでも孤立して弱くなっている。

牧口先生は、理論や理屈だけでは駄目だと喝破され、「善の連帯組織」「正義の組織」をつくろうとして「創価教育学会」を創立された。

創価学会の組織は、人材育成原理としての創価教育学のみならず地球的規模での生涯学習システムである。人間革命 ~ 人間それ自体を変革

「天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか」

「異体同心の連帯」~青年の熱と力と母の力(女性)で教育改造を!

以上 要旨記述 2016/03/10

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