ある医学者の一文から

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私の所見_

「生活力の根底をなす物質的条件の向上は、個人的恵与に待つべきではなく、どこまでも自然科学や社会科学の進歩に期待せねばならない。しかしそれによって物質文明が高度に発展したとしても、それは生命力がより多く発揮されるための条件であって、生命力自体を高めることではない。

真の慈愛は各人をしてその力そのものを高める事にある。換言すれば、人間に生きる力を与える事こそ最大の慈愛である。けれども人間が人間そのものに生命力を与える事はできない。

ではどうすればよいのか解らない。しかし、よくよく考えてみると実に各人に自らの内にその生命力というものを持っているようだ。否、生命を内に蔵すればこそ自己の存在を発見できるのである。いわば個々の生命は生命の大海原の上に動く一つ一つの波にも等しい。

ところが人間はその大海を忘れ、自ら萎縮して無力をかこっているようだ。人間に生命力を与える事とは、正にその根底にある大生命を目覚めさせる事でなければならない。故に真の慈愛とは、安易に物質を与える事ではなく、各人をしてその生命本来の姿を悟らしめる事ではないのか。

最も深い慈愛とは、道徳的であるよりは哲学的といえるのではないだろうか。

その哲学なるものは、単に理論のための学問では無く、生命そのものを高揚するものでなければならない。 ⇒ 死ぬ事すら許されぬ現実を生きる人々に生きる力を与えるものでなければならぬ。

依って哲学とは単なる真理の研究ではなく、生の歓喜を探究することではなかろうか。」

この彼の言々句々の実体は、あたかも貧弱な精神土台の上に巨大で複雑な現代社会という建造物が建てられているのが実体であり、これを正常な土壌に戻すためには、なによりも一人一人の

人間革命が先決である事を求めたい。

日蓮大聖人の仏法は、一部の人や、国や、特別な人のためのものではない。あらゆる国の、あらゆる階層の人々に対し是好良薬すなわち、良薬口に苦しの譬に倣い授けられた大良薬なり。

およそ、仏法は一切衆生を現実に幸福にしていくために説かれたものであり、理論のためや学問のためでもない。又、仏法は観念の宗教ではない。現実を嫌悪し逃避するような力なき哲理でもない。この宇宙、社会、人生を透徹した仏眼で照らし、そこから真の幸福への方途を説き明かした大哲理です。正しい宗教と誤れる宗教とは、良薬と毒薬の相違がある。仏界の頂上へ登る道と、地獄の渓谷へ下る道との違いである。つらつら思うに、有名の二字に酔いしれた人は、その酔いが醒めた跡は悲哀の人生であろう。権力に慢ずる人は権力が取り去られた跡、そこには弱い1個の人間を見るのみである。金力に頼り、それで全てを解決しようとする人は、金力が崩壊し去った後は餓鬼道の人生だろう。栄枯盛衰は世の常である。

原爆投下による広島、長崎や、シベリヤア抑留の地獄の様相等、これらの現実に眼を向けず、ただ空想しか許されぬ死後の世界か、別次元の世界にのみ地獄を求める一般の仏教界やキリストの説く極楽観念論。真の仏の説く地獄とはおとぎ話や観念論では断じてない。

ビクトルユゴー(仏の文豪)の言葉

大海より壮大なものは大空である。大空よりも壮大なものは人の心である。ところが現実は環境に縛られ宿命に泣き、偏狭な卑屈な心となっている人が大部分である。主体性を失い、浮き草のように生きる人が極めて多い。まことに嘆かわしい限りである。

この壮大な人間の心を開発し、人間革命していける宗教こそ、創価学会が世界に展開している

日蓮仏法への信仰にあることを強く訴えるものである。

以上

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