方便品八箇の大事
第一、方便品の事
「方とは秘なり、便とは妙なり」 三方便 ~ ①法用方便 ②能通方便 ③秘妙方便
内衣裏の無価の珠 ~ ”衣裏珠の譬え”
王の頂上の唯一珠 ~ ”中明珠の譬え”
一無く別無し ~ ”九界即仏界、仏界即九界”
客作の人長者の子 ~ ”長者窮子の譬え”
凡夫即極 ~ ”即身成仏、直達正観”
仏とは何か ~ 瞬間瞬間の生命活動の時間が楽しくてたまらない境涯。
何故、折伏するのか?
一切衆生が妙法の当体だから、下種する事で、それが縁となって、元々備わっている妙法の
仏種が薫発され、一切の経教が南無妙法蓮華経の流通分として用いられ働き必ず信心に目覚
める時がくると確信すべきなり。”秘とはきびしきなり、三千羅列なり、是より外に不思議之無し”
「如来秘密神通之力」 ~ (本仏と迹仏)
第二、諸仏智慧甚深無量、其智慧門の事
勤行について
正行~題目 助行~方便品(所破借文)寿量品(所破所用)
智慧に入る門とは、信心なり
仏法は道理である。ただ生命の奥底を説ききったものなので、難信難解であり法華経以前では
四十余年未顕真実として捉らえられてきた。法華経に至り「一生成仏抄(P,383)」に
一心法界の旨とは、十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず
一念の心に収めて此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云うなり。
日寛上人は「三重秘伝抄」において”此の三千は一念の心に在り”
永遠の生命が説かれたと云うのは、寿量品における五百塵点劫の顕本をいうのである。
①文底秘沈抄に
「問う若ししからば本果は猶迹仏化他の成道と為さんや。~応に知るべし三蔵の応仏次第に
昇進して寿量品に至り自受用身と顕わる故に応仏昇進の自受用身と名づくるなり、是れ即ち
今日の本果と一同なり云々」
②五百塵点劫と時を限定しているゆえに無始無終の生命観にはならない。
*御義口伝下(P759)には
「久遠とははたらかさず、つくろわず、もとのままと云う義なり、無作の三身なれば、初めて成ぜず
是れ働かざるなり、三十二相八十種好を具足せず、これ繕わざるなり。本有常住の仏なれば
本の儘なり。久遠とは南無妙法蓮華経なり」
*オパーリンの「生命の起源」
観念論と唯物論の生命観の対立が思想の対立の根本原因とする。
唯物論的生命観の限界
さて多くの人々は生命はこの世だけのものとする。そしてこうした考えの人は科学万能主義で
宗教を否定する人が多い。生まれてきたときに初めて生じ、死ねば泡の如くに消え去るという。
これでは、「人生いかに生きるべきか、いかにしたら幸福が得られるのか」といった人生の根本
問題や人間と動物、植物との相違、男と女の違いや貧富の差等生命に差別が生じる原因は
究明されないままであり、ましてや過去を認めようとしない限り到底解決されないだろう。
一人殺せば罪人に、百万人殺せば英雄に、原爆投下の責任者はどのように罰せられたのか。
このように、人類にとって大きな惨禍を起こす人と、人々のために、国のために真面目に尽くす
人達もいる。死ねば同一結果に終わり消滅してしまうとは、まことに不合理といわねばならない。
もし死後の生命が否定されるならば、我々は真面目に生きる事がバカバカしくなる。
他人のことなどどうでも良い事となる。自分だけ楽しければよしとするといった考え方が横行する
に違いない。これではいけない事は誰人も否定はしないだろう。
生命は必ず過去世にもまた未来世にも続いて行くこと、そして全ての人が無意識のうちにも、三
世の生命を感じており、永遠の生命を説く真実の仏法を求めて止まない事を確信すべきである
第三、唯以一大事因縁の事
方便品の一大事因縁とは衆生の四仏知見(開示悟入)。大聖人の一大事因縁は大御本尊建立
にあり。我々信心の立場からは、御本尊根本に一生成仏を目指し、広宣流布に邁進して行く
ことに尽きる。一大事とは三諦(仮、空、中)であり生命の本質なり。
因縁とは運動しゆく本質の原因、結果の過程。一大事因縁とは妙法蓮華経なり。
*一生成仏抄(P,384)
「抑、妙とは何という心ぞや、只我が一念の心、不思議なる処を妙とは云うなり、不思議とは心
も及ばず語も及ばずと云うことなり。然れば即ち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと
云わんとすれば色も質もなし又無しと云わんとすれば様様に心起る、有と思うべきに非ず無と
思うべきにも非ず、有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず、有無に非ずして而も有無
に偏じて中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり。」
信とは実践、実践なき信仰は観念である。~いかに生命は尊厳であるといっても、貧困にうち
ひがれ、病気にさいなまれ、あるいは家庭不和に悶々たる日々を送り、さらにはまるで虫けら
同様の扱いを受けたり生きる事自体が苦しく生命力が弱まり、希望なき人生を送ったり、餓鬼道
の生活をしている人の生命がどうして尊厳といえようか。又、戦争であえなく自分の身を犠牲に
する人の生命が何で尊厳といえようか。この日蓮仏法の大哲理の実践こそ真の広宣流布と真
の民主主義の達成への大道であると確信するところである。
第四、五濁の事
五濁①劫濁②煩悩濁③衆生濁④見濁⑤命濁。現今の世相を映しだしている。
大御本尊を信受した我々が、この社会を浄化していく以外にない。
*戸田先生の指導
染浄の二法が存在する。清らかな生命は宇宙のリズムに調和して決して無理がない。人生を
楽しむ事ができる。ところが、染法と申すのは、誤った生活が生命に染まって一つのクセを持
つ事になる。クセの元が、欲張り、怒り、バカ、嫉妬等のもので、是によって染められた生命
は、宇宙の生命に調和しなくなって生命力を萎めて行くのである。
この萎んだ生命は、宇宙の種々の事態に対応できなくなって、生きてる事自体が苦しくなり、
すなわち不幸な現象を生ずる事となる。我此土安穏なれば劫濁に非ず。
立正安国論(P、52)
「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば、則ち三界は皆仏国なり、
仏国其れ衰えんや~」
創価学会の団結は一人一人の自覚と責任感あっての団結である。決して命令的、盲目的では
ない。「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」とは、偏った思想の持ち主ではないという事で、
見濁に非るなり。
「瞋恚増劇にして刀兵起こり」とは戦争の本質をついたものである。激怒と激怒の衝突が戦争の
火花となって顕れるのである。
「貪欲増劇にして飢餓起こり」とは利己主義からくる。人々は他人を蹴落として迄自己の保身の
ために躍起となり、特に指導者が貪欲であれば、民衆が苦しむ。
「愚痴増劇にして嫉疫起こり」とは、愚かであるため病気が起こる。目先の事のみに目を奪われ
偏見、邪見のために素直な心が覆われて、無気力になり、そこに疫病が蔓延するのである。
「三災起こるが故に煩悩倍隆んに諸見転た熾んなり」
刀兵(兵革)、飢餓(穀貴)、嫉疫(疫病)の三災害が起こる。これが悪循環を繰り返すのである。
第五、比丘比丘尼有懐増上慢、優婆塞我慢優婆夷不信の事
「上慢と我慢と不信と四衆通じてあり」
折伏によって浮き彫りにされてくる生命現象
「五千の退座という事、法華の意は不退座なり~其の故は諸法実相、略開三顕一の開悟なり」
一切の不幸の根源は、邪宗、邪義にあり。
第六、如我等無異如我昔所願の事
「因を挙げて信を勧む」
*当体義抄文段にいわく
「信心はこれ唱題の因、唱題はこれ信心の果なり」
一生成仏の因であり、成仏の種子を覚知する事
*日女御前御返事(P、1244)御本尊相貌抄
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱う
る胸中の肉団におはしますなり」
「相、性、体の三如是が生命の実体。力、作、因、縁、果、報、本末九境等の七如是の働きが、
如我等無異ということなり。」
仏とは云っても、それは妙法の力用働きであり、釈迦、多宝も用の仏、迹仏に過ぎない。
妙法は無作三身である。
*御義口伝に云く、「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」
我が学会の幹部は否大聖人の弟子は、後輩の幸福を願っての信心でなくてはならない。絶対
に権威主義や命令主義に陥ってはならない。況や、信心を利用した幹部の行動こそ極悪なり。
*戸田先生の指導(佐渡流罪中の大聖人のご境涯について)
成仏の境涯とは、絶対の幸福境涯である。なにものにも犯されず、なにものも恐れず、瞬間瞬間
の生命が澄みきった大海の如く雲一片なき虚空の如きものである。(論文集P、351)
第七、於諸菩薩中正直捨方便の事
人生の目的は一仏乗、すなわち成仏と永遠の生命の感得にあり、五乗が目的ではない。
人界に於いては、宿命、宿業に苦しむ人のいかに多い事か。
天界に於いては、地位、財をいかに積もうとも、一寸先は闇である。(五衰の宿命あり。)
声聞界、縁覚界といえども、本質は同じであって、自己をも人をも根本的に救済できない。
菩薩界にしても、未だ宿命転換に至らず、所詮仏の生命を覚知する事が、人生の根本問題にな
るわけである。
*生死一大事血脈抄(P、1338)
「相構えて相構えて強盛の大信力をいたして南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ(乃至)
煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」
第八、当来世悪人聞仏説一乗、迷惑不信受破法堕悪道の事
悪人とは、誤った宗教の元祖たちである。三悪道に堕した現在の世相を考えるに、大聖人の
大哲理を世に送り出す以外に救う道はない。
以上 要旨記述 12/11/23
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