法華経の智慧第五巻

御書関連書籍等

池田大作 著

分別功徳品 第十七

弘教の功徳「師子王の大生命力」

・折伏とは悪を破折して善に伏しめる

妙法によって、人の幸福に尽くした分だけ、自分も幸福になる(功徳論)

・生きた哲学か否か

我が生命を浄化し、強化して、わが生活を向上させていくのが仏法。

*所願満足とは(戸田哲学)

「客観世界」のわが生活と「主観世界」の我が生命、この両者が完全に冥合すれば「所願満足」であり、幸福である。

・「貪、瞋、痴」の三毒を捨てよ、では偽善者を作ってしまう。末法の巨大な悪にとっては、こんな都合のいい民衆はない。おとなしく無力に翻弄されるだけの民衆であってはならない。

・「怒りを抑さえよとは説かず、悪に対しては激怒して戦え」

・「自我偈の功徳」 ~ 南無妙法蓮華経如来を拝した功徳

信心次第で功徳が違ってくる。一人一人千差万別の功徳これを分別功徳

永遠の生命と云っても目に見えるわけではない。しかし永遠の生命を信ずることはできる。

・「無生法忍」~ 常住の生命を確信する境涯(不生不滅)を認める事

随喜功徳品 第十八

妙法を伝える喜び  感激の心こそ大切

・「流通広布の時代」「五十展転の功徳」 ~ 御本尊に随順が本義

・御書の通りに生きる喜び

法師功徳品 第十九

「法師」= 弘教の人に六根清浄の大功徳

・私の眷属に合わせてくださいと祈る。あの人に仏法を教えてあげたい。

慈悲の念が強ければ、相手の悩み(急所)がわかる様になる。

これが「六根清浄」であり、「人間革命」である。

・眼根清浄の功徳 ~ 洞察力、智慧の眼が開目する。

・耳根清浄の功徳 ~ 話を語る、話を聞く(人間通であり対話の名人)

・鼻根清浄の功徳 ~ 心の香り、生命の香り

・舌根清浄の功徳 ~ 人を元気にする声なにを食べてもおいしい(境涯の妙)

・身根清浄の功徳 ~ 気品のある姿

・意根清浄の功徳 ~ 話す内容が宇宙の真理に叶っている。

常不軽菩薩品 第二十   “常に軽んじなかった”

増上慢の勢力との戦い

・民衆の苦しみをよそに、自分は傷つかないように、要領よくやろうというのは、魔物です。現実の中で戦い、難を受けていくまさに不軽品である。

“不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ”(P、1174崇峻天皇御書)

*戸田先生の指導

貧乏人と病人を救うのが本当の宗教である。

・「不軽菩薩」の礼拝は自他不二の礼拝である。

・三つの宗教

1、科学的進歩への信仰

2、共産主義への信仰

3、国家主義への信仰

牧口先生が神札を拒否した本質は、この国家崇拝を拒否されたことです。

悪人たちの眠れる仏性を信じて「毒鼓の縁」を結び仏縁を念じる。

“とてもかくても法華経を強いて説かすべし信ぜん人は仏に成るべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏に成るべきなり”(P552法華初心成仏抄)善悪不二

如来神力品 第二十一 ① 地涌の菩薩への付属

全民衆よ!汝自身の尊貴さに目覚めよ!広宣流布への荘厳な儀式

“妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は、宝塔品の時起り・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事意るなり”(P、770御義口伝)

・地涌の菩薩(菩薩仏)境涯が仏であり師弟不二でなければ、正法を正しく弘める事は出来ない。(娑婆こそ寂光)忍辱の心で戦う人が仏

・凡夫こそ本仏の大宣言 ~ 人間のための宗教宣言

“凡夫は「体の三身」にして本仏ぞかし、仏は「用の三身」にして迹仏なり、然れば、釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳備え給うと思ひしに、さにては候はず、返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり”(P、1358諸法実相抄)

・思想的な根っこは、「神仏が上、人間が下」とあるが、神仏のそばにいるはずの聖職者が、一般信徒より上にいるように錯覚してしまう処に起因している。

・大聖人の御言葉が、全宗教史上画期的な宣言である。

・成仏という絶対にして永遠の幸福境涯を得る事こそが、仏の神通力なのです。

恐ろしい事は、なにも信じられないという空虚感のスキにこそ、魔性の国家主義がつけ入って来ることです。

・ユングの言う魔性に抵抗する唯一の力は、「人間は小宇宙であり偉大なる宇宙を小さな世界の中に映し出している」という人間尊厳の自覚を持つことである。大我に目覚めたタゴールは叫んだ。自己の小さな“限界を打ち破れ!打ち破れ!”と

如来神力品 ② 上行菩薩への結要付属

人間主義の仏法の夜明け ~ 日蓮と同意で広宣流布へ立て!!

・広宣流布と一生成仏は、地球の公転と自転、(一体不二の関係)

「南無妙法蓮華経如来は根源の師」という捉え方。

*“祈ってはいるが、なかなか叶わない”

・「信の題目と行の題目」 ~ 「信」の題目が大切

・ガンの転移が無かったというのが、題目の功徳とするならば、治るだろうか、通じるだろうかというのは、奥さんが自分の生命に作ったカベに過ぎません。

それは生命の限界ではありません。今こそ強い祈りが大事です。同じ祈りでも確信が大事です。病気は医者が治すのではない。治療に専念する事が任務です。治すのはどこまでも本人次第です。原因結果は自分です。治るか治らないかではなく、治してみせるという強い一念で決まるのです。(他人のせいにしない)

・人間以外の仏はない。人間以上の仏はニセモノです。方便なのです。だからどこまでも人間として「無上の道」を生きていく事です。それを教えているのが、法華経であり、「神力品」の上行菩薩への付属なのです。

如来神力品 ③ 凡夫こそ本仏

仏教史の転換(民衆勝利の大行進の序曲)

・エリート意識の人間は捨て身で戦わず、名もなく、貧しい「ただの人」其の人こそが尊いのです。

*戸田先生は、“わかる”ことより“かわる”ことだと言われた。

如来神力品 ④

「文底」仏法は民衆仏法「虚飾を捨てよ」「人格の光」を

・組織と云っても、幹部で決まる。~ 幹部は自分を謙虚に磨いていく。

会員同士を徹底的に大切にする幹部になればなるほど、基本に徹する事です。

学会員の「外用」は、それぞれ会社員であったり主婦であるとか、いろいろです。しかしその「内証」の資格は、「地涌の菩薩」なのです。

*「従果向因の仏法」とは

・「最高の福徳」と「最高の智慧」を直ちに相手に与える事を意味し、それまでの教えとは異なり、「文底」が説かれて仏法が完結に至るのである。

成仏を目指して進む「従因至果の仏法」の捉え方では、例えば自分が大金持ちになったら助けましょうといったような、いつになったらその日が来るかわからない、本当に来るかどうかも分からないあたかも「九界より仏界に至る」といったような捉え方。 「因果具時・不思議の一法」

・本当の仏法者は、飾りません有りの儘です。本当の信心は捨て身です。

自分を庇うでもなく、不惜身命で「難」に向かっていくのが日蓮仏法です。

・民衆の敵と戦わずして成仏はない。仏敵という「一凶」と戦わずしての広宣流布はない。

属累品 第二十二

「虚空会」 付属の儀式の完成

「ご安心ください!」と弟子たちの誓い~「後継品」「師弟品」

*戸田先生の指導

牧口先生に可愛がられた弟子は、皆退転し先生に背いた。おれは一度もほめられたことはなかった。しかしこうしてたった一人残って先生の跡を継いで立っている。

・決して勢力拡大でも売名でもない、単なる理論闘争でもない。

“最高の正義であり、最高の勇気”慈悲に代わるものは勇気である。

・根幹は「師匠対自分」です。組織の機構や役職等は方便です。それを間違うと大変です。官僚的な形式の世界にしてしまったら大変です。

・弘教について先生はよく、「御本尊をしっかり拝む事だ、ほかに何の方法もない」と云われていた。「真心が通じますように」と祈るのです。

・折伏の出来ない人もいる。あまりできないが、本人は喜んで信仰に励んでいる。それはそれでいいではないか。~ 御本尊が本当に素晴らしいという事が解かってくれば、自然にその人は他人に云う、それが折伏なのです。

心を軽くしてあげるためにリーダーがいるのです。みんなその反対をやっている、勇気を与える、希望を与える、大きな心で褒め称えていくんです。

以上 要旨記述 2015/10/25

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