無量義経六箇の大事
第一 無量義経徳行品第一の事
「無量義は一法より生ず」~一法とは大御本尊
「四十余年、未顕真実」~法華経以前の諸経は全部方便の教え、迹門の段階では、今尚無常を免れていない。(夢中の法門)
色相荘厳の仏とは、無常を意味する。
理常住と事常住
一生涯広布に生きようと決意する事は理常住なり。事実に於いていかなる批判や苦難の波を受けようと敢然として御本尊に生き、広布に生きることが事
常住なり。本有常住の人生と云えよう。
唯、信心の一字にのみ幸福の実体はある。人間革命により自身の当体を確立しきることが覚前の実仏であり、これ以外に真実の人生はないと確信すべきである。「無作の三身は覚前の実仏」とは、本因妙の人生なり、常に価値創造しゆく人生。それに対し、本果妙の人生とは、過去の栄光、功績に囚われた人生をいう。生涯建設を忘れず、開拓を忘れず、成長を忘れない人生を。
第二 量の字の事
無量義の三字のうち、量の字について
曾谷殿御返事(成仏用心抄P1055)に「されば境と云うは、万法の体を云い、智と云うは自体顕照の姿を云うなり、此の境智合しぬれば即身成仏するなり」
いきなり凡人では考えられないような力が湧くわけでもない。そのままの人格で最高に個性を発揮し、いままで隠されていたその人の特性を顕現していくのである。自己確立なり。
第三 義の字の事
当体義抄(P513)に「至理は名無し、聖人理を観じて、万物に名を付くる時、
因果具時不思議の一法、之を名づけて妙法蓮華経と為す、此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して、穴現なし。之を修行する者は、仏因、仏果同時に之を得るなり。」
秋元御書(P1,072)に「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」
曾谷入道殿御返事(P1025)に「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり、
然れども、我らは肉眼なれば文字と見るなり、例せば、餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随って別々なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る。二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり、即持仏身とは是なり」
単衣抄(P1515)に「御経の文字は六万九千三百八十四字、一々の文字は皆
金色の仏なり」
大宇宙の根本法則(一切の法則)こそ南無妙法蓮華経なのである。
第四 処の一字の事 (処の一字は法華経なり)
第五 無量義処の事
法華経を説くにあたり、その開教である無量義経において「四十余年、未顕真実」とすべてが方便の教えであると説いた。
一往の義では、法華経八巻は処なり。四十二年間の教えは単に、法華経八年間の教えにあった。
第六 無量義処の事
釈迦にせよ、天台にせよ、この御本尊を又、南無妙法蓮華経を説明せんがために多くの経論を説いたのである。
「善に付け、悪に付け、法華経を捨つるは、地獄の業なるべし」
再往の義では、一念三千の序文なり。
<普賢経> (普賢経五箇の大事)
第一 普賢経の事(仏説観普賢菩薩行法経)
普賢経を結経とする。
六根清浄にして、法華経を読誦せば、普賢菩薩を観ずると説く。
「端座して実相を想え」
生命哲学を根底として、第三文明の理念や創価教育学説、価値論等を編み出すのは普賢菩薩の生命活動といえる。
さらに、これを具体的に各々の立場に於いてどうするか等の問題を処理していく智慧は文殊の働きである。
第二 不断煩悩不離五欲の事
阿難、迦葉、弥勒の問いに対する答え。この妙法には無駄はないとの意。
「煩悩を断ぜず、五欲を離れず」と読む。
第三 六念の事
真実の末法救済の仏は唯我一人日蓮大聖人ただ御一人なり。
第四 一切業障海、皆従妄相生、若欲懺悔者、端座思実相、
衆罪如霜露、慧日能消除の事
第五 正法治国不邪 人民の事
諸法実相抄(P1360)に「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女は嫌うべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり。
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人、三人、百人と次第に唱えつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」
以上 要旨記述 2013/08/17
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