河合一副会長御書講義1(2003年2月2日)から 所感

*強情な信心と折伏精神を御書から学ぶ

 「信心とは何か」という基本が曖昧になっている。学会二世が増える時代背景の中で、「会合型

 信心」「活動型信心」になっている。会合に出ていれば信心がある。「会合や活動」は信心の

 本質ではない。「何のために信仰する」のか信心とは何か」をもう一回確認していくことです。

*創価学会は指導主義

 組織を強くすると言う事は、一人一人の信心を強くするしかない。その信心を強くするには、

 信心を教えて実践させて、結果を出させる事です。

 指導、訓練、擁護、教育~根本は「指導」です。指導訓練があれば人は必ず育ちます。

*指導とは決意させる事

 「発心、決意」させること。「御本尊」へ向かわせることです。その上でいろいろと「教えてあげて

 実践させながら護ってあげる」ことです。「運営上手の指導べた」といわれるようにイベント企画、

 会合、組織の運営は大変上手なんだけど指導ができないでいる。

 「指導」が出来ないと人は育たない。「御本尊」を拝もうと決意させる事なんですが、その前提と

 して「信心とは何なのか何のために信心するのか?」またどういう風に信心すればいいのかとい

 う「指導」が必要になってくるんです。

 「指導の原則」と言うものがあるわけで、それは「御書」の中にあり、代々の「会長指導」の中に

 全部含まれているんですね。それらを自分自身のものにして、「実感」として訴えていくのです。

 「やる」と言う事と「結果を出す」ということは別問題です。結果の出ない活動をどんなにしてもし

 ょうがないんです。どうすれば結果がでるのかということです。「信心」しかないんです。「信心

 根本」と言いますがただ「拝んで動いてる」事が信心根本だと思っている。

 「信心の基本」をもう一度確認して、実感し、実践して訴えていくしかないんです。

*教学は信、行のあり方を学ぶ

 戸田先生の指導に、「信心と言うものは、分かったと思ったら増上慢なんだ。分かんないといっ

 たら謗法だ。」分かろうとしていく中に信心があると言う事なんですね。信、行を学ぶために

 教学があるんです。理論を学ぶんじゃないんです。信心、実践のあり方を学ぶんです。「理論

 学習」ではないのです。「信心学習」なんです。

 御書学習会に来た方達がどう感じて帰られたか。「今日の講義はよく分かった早く帰って寝よう

 ではダメなんです。話はよく分からなかったけど「とにかく信心しなければいけないんだ題目あ

 げて折伏しなければダメなんだ」と決意して帰ったら大成功なんです。

 「会合」はあくまでも「発心」の場でなければならない。

<四条金吾殿御返事(此経難持の事)>

 四条金吾が主君の江馬氏を折伏したことから主君に疎ねまれ同僚からも迫害を受けることとなり

 「こんなはずじゃなかったのに」と思わず愚痴をこぼした。そのことを縁とする日蓮大聖人の指導

*悩み、問題がおきたときがチャンス

 信心している人が疑問を持つときがチャンス。不審を起こした今、難に遭っている今、ここで不

 審を晴らしておかなかったら大変、あとで尾を引いてしまうことになる。ここですっきりしておかなく

 てはいけない。ここが指導のコツになるのです。

 一つには、その人の宿業がでる。もう一つが信心がチャランポランなために行き詰まるのです。

 どんな悩みがあろうと、問題があろうとも、信心のある人には行き詰まりはないんです。

 悩みの内容がどうのこうのということはあまり関係がない。相手の一念をただせばいいのです。

 指導してあげるのです。決意させればいいのです。御本尊様を拝めば解決するんだ。宿命転換 

 のチャンスだということを相手に訴えて決意させればいいんです。それから変り始めるんです。

*現世安穏とはどんな悩みや、問題にも負けない事

 負けなくなる事であり、悩みもプラスに変えていけると言う事です。

 戸田先生の指導

 日蓮大聖人は佐渡流罪の時も”日蓮は流人なれど喜悦はかりなし、日本一の富める者なり”

 の大境涯(仏)であられた。信心するということは、悩みがなくなると言うことではなく、どんな悩み

 がおきようと、根本は安心しきっていけるということではないだろうか。病気になった。さあ御本尊

 様を拝めば大丈夫だ。問題がおきた。さあ信心で解決しようとなれば安心できる。

 牧口先生の指導

 病気をした。これはだ。何故だったんだろう。悩んでいてもしょうがないこの病気を「変毒為薬」

 してみせる。健康と言う大福運を開いてみせると確信し「決意」して信心を続けていくことが大事。

 病気が治るだけでなく、以前より健康になるのが変毒為薬の妙法の功徳なのだ。

 病気が治っただけではマイナスがゼロになっただけ。失業したが就職できた。これはマイナスが

 ゼロになっただけ。前よりいいところに就職しなきゃいけない。プラスにならなくちゃいけない。

 しかも同じ事で二度と悩まない。これが「宿命転換」した証拠。

 ダルマは行き詰まっている姿ですから、手も足もでないんです。けっして縁起物ではないんです。

 起き上がりこぼしは、底に重たい重心が入っているから触れると揺れるけど最後には安定する。

 仏界の重心を重くすればすぐに元に戻るんです。生命の重心を重くすれば何があっても揺れ

 が少なくなってくるのです。悩みがあることは恥ではない、いつも同じ事で悩んでいるのは恥な

 んです。宿命に振り回されている、生命が弱いからなんです。

 氷山の一角

 水の上に出ている部分を悩みとします。この悩みを何らかの方法で解決したとします。

 例えば、病気を医者で治して悩みは無くなったとします。ところが氷山の下の部分が出てきて

 今度は家庭の問題だったりしてきりが無いんですね。ですから元を断たねばダメなんです。

 生命そのものを変えなければ、悩みの形が変るだけで悩む事に変りはないのです。

 その弱くて醜い生命を綺麗にするのが信心なのです。信心して出てきた悩みは解決するため

 に出てきた悩みです。丁度借金の取立てにあってるようなものです。

 戸田先生の指導

 「クセ」がでるのを「罰」と言う。生命のクセつまり「宿命のクセ」が出るのを罰、「不幸」というのだ。

 罰は神や仏があてるのではなく、自分の中にある「クセ」が出てくるんですね。罰は出るもので、

 バチが当たるのは太鼓だけ。問題は出方にある。信心している場合には「転重軽受」現代的に

 言うと大型割引ということです。どんなに信心に頑張っても借金がゼロにならないとする。例えば、

 100万円の借金があるとして、とても一度には返せそうにない。ところが10万円に負けるからすぐ

 に払えといってきたようなものなのです。だから急いで払ってしまえばいいんです。

 払わないでいると差し押さえに遭う。よしチャンスだと決めてやれば軽くすんで後に福運が残る

 んです。生命を強くして環境に負けないで、環境条件を変えていけるんです。

*法華経の文に難信難解と説き給うは是なり

 信心すると難が起きるというのは、過去に「謗法」があったからです。「難を呼び起こす信心」。

 早く借金を返せるのだから、喜んで受けて、借金を返してしまえばいいんです。

*この経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来たれど憶持不忘の人

 は希なるなり

 池田先生の指導

 御書の通りではないですか。なんで疑うんですか。大聖人様がおっしゃったその通りだと思うこ

 とです。だけど現実に自分の問題になると疑ってしまう。だから境涯が開けないんですね。

*受くるはやすく持つはかたし、さる間成仏は持つにあり

 御書の通りに獅子吼”にならないで”豚吼”であってブウブウいって頑張っている。こんなにやっ

 てるのにね。結局、惰性であり、今の信心が不信になっていることに気ずかないでいる。不信で

 は成仏はできません。実証というのは決意の持続にあるんです。結果が出ないという事は決意

 があいまいか、持続しなかったかどっちかなんです。

*決めて、祈って、動けば必ず結果が出る(信心の方程式)

 決意と目標があいまいで実践があいまいでは結果はでませんね。戦いになりません。戦いとい

 うのは、結果をだすことです。勝たなくてはなりません。

 決意と目標が明確で真剣に祈って、動いて結果がでないわけ絶対に無いんです。

 なんとなく頑張っている惰性の人(横向きの信心)。不信で頑張っている(後ろ向きの人)。

 指導とは不信か、惰性か、気がつかせてあげる事で、前向きの信心に変えさせればいいんです。

 ああしろ、こうしろ”なんてことは必要ないんです。どうやるかは本人次第です。決意する事をさ

 せないで、”やる事”を強制させてしまう。相手に押し付けたのでは重荷になってしまう。

 言われた決意では長続きしない。押し付けだから本当の発心ではない。本当の発心ならば何を

 やっても構わない。100万遍の題目、一日2時間の題目、本人の勝手なんです。どうやるかは

 本人次第です。形から入ったら惰性になってしまう。本人の決意から入ったら信心になるんです。

 受身=惰性~活動が重荷になる(苦しくなる)

 結果が出ない=グチと文句、しらける~貧心コース(信心ごっこ)*信心が空回り。

 人にだまされすぐにあきらめる元念仏型で頑張っている人  ~  創価学会念仏風

 学会二世は生まれつきの惰性。信心体験がなく、そのまま来ている。人柄はいいんだけど弱い 

 んです。勤行と活動だけは教わっているのだけど、何のために信心するのかを教わっていない。

 自分の意思で信心を始めたわけではないんですね。自分で決意して初めて信心になるんです。

 だから、信心とは

 1、自分自身で決意して

 2、自分を変えようという変革の目標と実践の目標を明確に

 3、御本尊様に真剣に祈り、実践すると

 4、苦労はあっても必ず結果が出て、喜びと福運が残る

 体験のない人は、本当の決意をしたことがないのです。例えば、文化祭で頑張った人が終わると

 落ち込んだりして、勤行をしなくなる。根本的に自分を変えようと決意していない場合が多い。

 活動のためだけの目標だと、自身の変革はないんです。体験が出来れば強くなれるのですが。

*信心を深めるとは、体験を積むこと

 牧口先生の指導

 宗教というものは、体験する以外に解るものではない。教学を勉強して信心しなければダメだと

 言うことを学んではじめて教学が自分のものになるんです。

 無疑白信~どうすれば疑わないか。体験すれば疑わない(決めて、祈って、動けば体験できる)

 自分で決意して、実践して実感したものを相手に訴えると相手に入る。こちらの一念が入るので

 あって実感が相手に通ずるのである。結局方法はないのです。ただ一念です。理論ではないの

 です。言葉で通ずることって少ないんです。家族でも親子でも同じです。直通ではダメです。

 御本尊経由でいくんです。一念のこもった言葉は通じるが、単なる言葉だけでは空しい。

*成果の出る組織の三つの共通点

 1、組織目標ではなく一人一人の決意、目標を明確に持っている。

 2、皆が題目を上げている。

 3、幹部が率先して実践~題目を上げ折伏もしている。

 組織は長の一念で決まる。

*此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり

 信心するということは、苦しみじゃないんです。難がある、苦労があるのは当たり前。だから成長

 できるんだ。人間革命できるんじゃないか。こう受け止めていくのが信心なのです。

 信心で楽をしてはいけない。信心で楽をしたら、世法で苦労します。信心根本でうんと苦労して

 福運を積む事です。だから楽をしようと思はないで自分を磨こうと決める事です。

 そうすれば、あとに大きな財産が残るんです。

 不景気だからこそ、信心のしどころなんです。信心は信心、活動は活動、仕事は仕事で悩んで

 いる。決意と祈りがあいまいで、ただ活動だけに頑張っている。重荷にはまっている場合が多い

 んです。やんなきゃならないからやろうという言い方はいけないと思う。自分で決意した自分の

 戦いとして、頑張ろうと言う風な決意の方が力が出るんです。信心していれば何とかなるんじゃ

 ない。自分で決めて祈った分しか結果は出ないんです。

<則為疾得無上仏道は疑いなし>

 人に言ったらグチになる。御本尊にぶつければ、祈りになる。どんなに頑張っても、グチを言っ

 ちゃいけないんです。グチと言うのは、自分は悪くないんだ。周りの環境が悪いんだ。他人の

 せいにすることです。それを相手にぶつけるのを文句と言う。グチと文句は双子の兄弟です。

 グチと文句と怨嫉と付き合っていると、どんなに頑張っても功徳はない。

<天台大師の云く信力の故に受け念力の故に持つ>

 決意するは「信力」持続は「念力」。変る決意は決意じゃない  ~  キャンセル型信心

<松は万年のよわひを持つ故に枝をまげられる>

<法華経の行者は久遠長寿の如来なり>

 大聖人の眷属ですから、未来永劫の幸せのために今さまざまな修行のために枝をまげられる。

<此れより後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし>

 御本尊を疑わせるようでは「謗法」だと戸田先生は指導された。観念や言葉で人は動くものでは

 ありません。自分で実感したものしか相手に通じないのです。祈った分しか通じないのです。

以上 2012/06/15

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