法華経の智慧第四巻

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池田大作 著

Ⅰ、生きて生き抜くのが「寿量品の心」

・日蓮仏法の究極の目的は、「永遠の生命」を悟ることである。

理屈でわかる事は簡単だ。しかし信心でわかるというのは全然違う。

*仏法の真髄は、頼らない、自分が立ち上がる、同情もいらない感傷もいらない、励ましもいらない、自分を変え周囲を変え、社会を変え国土まで変えていく。

自分自身が変わらなければならない。変えるべき根本は、「生命観」にある、

「生死観」にある、「自分観」にある。自分の中に広がる生命の大海に目覚めてこそ大いなる人生を生きられる。

不幸の原因は自分にある。自分の一念が変われば、一切が変わる。

・全てを“善知識”と捉える  ~ (境涯を高めるしかない)

*「一念三千」

人久しといえども、百年に過ぎず” ~ この世は一睡の夢なり

今世で仏の境涯を開き固めた人は、それが永遠に続くこの一生で永遠が決まるそれが「一生成仏」である。

Ⅱ、発迹顕本 「人間こそ尊極」と宣言 

*「末法の悟り」とは何か?  それは御本尊を信じ切るという事だ。

寿量品の“永遠の生命”を根底にした大文明が花開く世紀。

おなかが一杯に為ったら、本当の信心は出来なくなる。

仏が人間でなく、神様になってしまったら、師弟の道は成り立たない。

人間釈尊を忘れたとき、仏教は人間の生き方から離れてしまった。

*「始成正覚 久遠実成」(発迹顕本)五百塵点劫

「常住此説法」の仏、「久遠元初」の仏(無始無終)

「永遠の仏」 ~ “良医病子の譬”

御本尊(人法一箇)これ以上の現実、具体はない、神格化しない

*「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし仏は用の三身にして迹仏なり」

色相荘厳の仏 ~ 世情に随順して色相を荘厳し(金ぴか)の仏となる。

仏の慈悲にすがって救われようとする ~ 小乗、大乗の教え

法と自己を拠りどころとせよ ~ 法華経の教え

*「仏教を人間化する」 諸法実相抄(P、1,358)

権力化する因聖職者の堕落②、組織の硬直化、③、信仰心の惰性

私は立派な凡夫だ。自分をだなどという宗教の教祖はインチキだ。

人間以上の人間はいない。人間主義の仏法

*日蓮仏法こそ21世紀から始まる第三の千年末法万年を照らしゆく人間宗。

Ⅲ、本門の心 「絶対的幸福」を確立

1、“時代とともに広き心もせばくなり、道心ある人も邪見になる。”

狭まった心を拡げるのが仏法であり、広宣流布運動で一念三千です。

「釈尊の真意は一念三千をみよ!」

・「永遠の法」 南無妙法蓮華経

・「永遠の仏」 南無妙法蓮華経如来(久遠元初の自受用身)宇宙の生命

2、人法一箇の仏

釈尊自身も永遠の仏と一体の自分を悟った。それを“不死の境地”

爾前経では、二乗作仏(差別)久遠実成(発迹顕本)という二つの失(欠点)

法華経方便品において十如是(十如実相)

因果具時不思議の一法 蓮華の法 ~ 「当体蓮華」

諸法実相の諸法とは十界、十界諸法がすなわち妙法の当体

3、十界互具とは

「九界即仏界」「仏界即九界」の生命の真実の世界を開くには、釈尊が始成正覚のままでは説かれた法と説いた人とが一致しない。

*“発迹顕本”とは、諸法実相を実証するものである。

開目抄(P197)

“九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし”十界(諸法)の真実の姿(実相)を如実知見するのが寿量品です。

「本有常住」「本無今有」 ~ 無始でなければ、根なし草、水中の月

“才能ある畜生”とは ~ 自分の生命の根源を知らずにいる。

人間らしい人間に境涯を引き上げようというのが、法華経の精神であり広宣流布運動である。

*「十界本有の仏」とは、仏と一体だと自覚すれば仏なのです。一切衆生にそう自覚させる為に仏法は存在するのです。ところが人々は小我に執着して狭い心のままで苦しんでいる。その無明を叩き破って、久遠元初の大生命の太陽を登らせるための法華経を弘めようとする。

*「我実成仏」 無量無辺の経文のとは、「我とは法界の衆生なり、十界己己を指して我というなり」御義口伝(p753)

戸田先生の指導

*「始成と久遠」の違い

始成とは今世論(勝手な生き方)久成(久遠実情)とは永遠論

今世で妙法を信受できたのは過去からの縁があったからで、夫婦になるも過去の縁未来もまた同じである。同志も永遠であるとする。

全人類が仏なのだから殺人などという事はもう考えられなくなる。

信心面から捉えると

久遠の使命を感じて信仰した人はあまりいません。行学が進むことで過去

に広宣流布を誓い今世に生まれてきたのだという事が信じられるように

なった。

但し「観念でわかるのと実践でわかるのとは天地雲泥の違いである

*目先のことにとらわれるな!

目先は始成論です。

永遠と宇宙を見つめながら生きる。その上での今世観が大事。永遠の上から見て今世が一番大事なのです。

今世は短い永遠から見れば一瞬です。ゆえに今世を修行しぬいて、仏界の生命を打ち固めておくことです。そうすれば永遠の仏の境涯が続くのです、だから今を頑張りなさいというのです。

“金を儲けたい、丈夫でいたい。”当たり前の事です。それを叶えてくれ

る宗教こそ真実の宗教なのです。~それだけを願っておりながら将来

絶対的幸福境涯に入れるのです。

4、絶対的幸福境涯とは

何処にいても生き甲斐を感ずる、生きていることが楽しい、腹の立つことがあっても愉快に腹が立つそういう境涯が出来たらうれしい。

真理探究の二乗界であれ権力闘争の修羅界であれ、信心が輝いておれば仏の智慧と合致してくる。信心がなくなれば利己主義しか残らない。

*牧口先生は、獄中においてさえ御書を読み信心さえあれば地獄にいて安全だ

と家族へ書き送っておられた。

5、「仏法とは魔との闘争」

・仏教の人間化

“妙法を唱える人は、やすやすと仏になるべし”“釈迦同等の仏にやすやすとならんこと疑いなきなり(p817)”「御講聞書」

Ⅳ、十界論(上)

幸福の追求 悪と戦った分だけ「境涯が拡大」

*釈尊の三つの詩(ダンマが顕わになった)玉城康四郎博士(仏教学者)

  ダンマ(ダルマ)とは法の意味

  • 日没の時の詩~一切の疑惑が消失したのは、縁起の法を知っていたから。
  • 真夜中時の詩~一切の疑惑が消失したのは、縁の消滅をしったから。
  • 夜明け時の詩~悪魔の軍隊を粉砕し、安立していた(太陽が昇る)

 ・境涯の大宇宙

   アインシュタインの相対性理論(時間は相対的であるという発見)

 ・その人の境涯がどうか。「境涯の妙」“ウラシマ効果”

1、地獄界  “不自由な瞋りのうめき声” 「瞋るは地獄」

   (貪欲・瞋恚・愚痴の三毒)

  自分で不幸の責任を引き受け、変えていこうという強さではなく、無力な自分へのやり場のない恨みであり、うめきなのです。他人を恨み、社会を恨み、自分の殻に閉じこもるという生命力の弱さです。十字御書にいわく

  “抑々地獄と仏とはいづれの処に候ぞとたづね候へば・或は地の下と申す経文もあり・或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやおぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろそかにする人は地獄その人の心の内に候”(p1,491)

2、餓鬼界  “貪る”欲望の奴隷  「貪るは餓鬼」

  「この道は余道と往還し、善悪相通ずる」進歩させ向上させるエネルギー

  現代文明は欲望肯定文明であり、欲望解放文明である。その結果主人のように君臨し、その奴隷となって苦しんでいるといった皮肉な現状です。

・根本的欲望; 生きるというエネルギー

・本能的欲望; 食欲、

・物理的欲望; 所有欲

・心理的欲望; 自己顕示欲、権力、名誉、支配

3、畜生界   目先にとらわれた愚痴

「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる」p951)

戸田先生は「この世から貧乏人と病人をなくしたい」「悲惨の二字をなくしたい」と一人立たれた。「人間革命しかない。境涯革命しかない」と。

「断じて自分を高い境涯に引き上げていこう」

Ⅴ、十界論(中)修羅の嫉妬社会から人道の社会へ

三善道(修羅界、人界、天界)

4、修羅界 他人を見下す慢心諂曲なるは修羅(p241)「観心本尊抄」

“自分の本心を見せないで従順を装う”本心と外見が違っているうそつき

外面は仁、義、礼、智、信という徳を見せようとして、下品の善心を起こ

し修羅道を行ずる。

人を心から尊敬できない、自分だけが偉いと思っている。勝他の念が強い

内面では人格面でも優れていると人に思わせ自分でも思い込もうとするかもしれません。

*上漫(増上慢)と我慢について  御義口伝(p718)

・「疵をかくし徳を揚くは上慢と釈す、自ら省こと能わざるは我慢と釈す。」

自分の欠点を隠し、徳を宣伝するのが増上慢

自分勝手な考え方に執着して反省しようとしないのが我慢

*平気でうそをつく人たち、邪悪な人

「完全性という自己像を守ることに執着する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと努める。彼らが心を煩わせることはまさにこれである」

邪悪な人たちの異常な意志の強さ、彼らは体面や世間体を維持するためには人並み以上の努力と奮闘する傾向がある。地位や威信を得るためであれば、大きな困難にも甘んじ熱意をもって困難に取り組む事すらある。

*努力が善や美、多くの人の利益の為ではなく、全部利己心からくるものであってエゴの為ではないのか。

*三悪道は環境に埋没している境涯です。しかし修羅界は、そこを一歩抜け出て環境や状況に左右されない自己を、ある意味でもっている。

*他人に勝つという“勝他の念の強さ”を自分に勝つことに向けてこそ人界となる。そうでなければ本当の幸福は生まれない。

「アテネの嫉妬社会」 ~ 歴史の教訓

「嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。」  人生論ノート(三木清)

「はじめに結論ありき」であって、そこにあるのはファクト(事実)ではなくて、ストーリー(物語)である。しかも勝手に作ったストーリーを。

5、人界 ~ 自分に打ち勝つ「軌道」を

  三帰五戒は人に生る」(p430)「十法界明因果抄」

・三帰とは、仏、法、僧への帰依(信仰心)

・五戒とは、(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)

知性で自分をコントロールできるのが人界

・「賢きを「人」と云いはかなきを「畜」といふ」(p1174)「崇峻天皇御書」

・人界は「聖道正器」であり、「法の器」である。

Ⅵ、十界論(下)

六道から四聖へ ~ 欲望社会を超えて

「天界の栄えは幻の楽しみ」「生命の大長者は三世に栄える」

6、天界

1、「天人五衰」

・環境に左右される自分から環境を左右しゆく自分への人間革命

・天への畏れから宗教は生まれた。~ 祈りから宗教は生まれた

*目が外ばかりを見ていて、内を見ていない欲望追求を善とする文明である。

いわば天界を理想としてきたところに行きづまりの根本がある。

*死との境を経験しなければ、御書や先生の指導の本当の深さが解からない。

そこに気付かない人が何と多い事か。

*「三界(欲界、色界、無色界)は安きことなし猶火宅の如し」

2、有りとみるか、空とみるか!

一切諸法を六道は「有」と見る。二乗は「空」と見る(空諦)、菩薩は「化」と見る(化諦)仏は「中」と見る(中諦)

*苦行によって得た境涯には無理がある、無理があるゆえに永くはそこに留まれない。法華経によらなければ六道を脱却することはできない。

二乗も妙法によって、初めて六道を超えられる。

釈尊は天界(欲天)的な境涯を捨てて出家した。仏法の誕生そのものが、六道から四聖へのステップであった。

*なにかを無償で手にいれられるためしはない。楽な暮らしをかち得るにあたっては、その代償として楽な暮らしと同じくらい、いやもしかするとさらに大切なものを失っている。

天界を求めるだけでは、精神は死んでしまう。

*死を覆い隠そうとする。死から目をそらさせる ~(生活水準の向上)

すこしも悪意のないごまかしであり最も深刻なごまかしである。(岸本英夫)

3、願わくは現世安穏後生善処の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ、須らく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ、今生人界の思いでなるべき」(p467)「持妙法華問答抄」

*長者にも三種ある(p818)「御講聞書」

  ①、世間の長者(富豪、知識人)②、出世の長者(仏)③、観心の長者(凡夫のままで仏になる)

Ⅶ、十界互具(上)

菩薩界と仏界

*自己中心の闇を叩き破って仏界の太陽は昇る。

・仏とは、心の不思議を知り究めた人のことである。

*仏道修行も、学んで戦ってそれで仏になる。組織の上に乗っかって、人に苦労をさせ、自分は楽をしている、それでは堕落です。

9、菩薩界

*「人のため、法のため」  自分中心から人間愛へ

*利己主義から慈悲へと変えていくのが広宣流布の戦い。

*師子王の心の信心が「仏界」

10、仏界

この宇宙は第六天の魔王の支配する世界です。「不幸の将軍」「不幸の王」が率いている。~ どうしても妬む。弾圧する。人を不幸にして喜ぶ。そういう邪悪な軍勢と闘って打ち破って幸福になる。仏になる。

1、「本来の生命に還る」のが本門

 成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。

*命に差別はない。平等に仏です。違うのはそれを自覚しているか否か、その心の違いだけです。「成仏は持つにあり」「難に値うと心得て法華経を受持せよ」

2、「魔を破るのと仏になるのは同じこと」

 「決して魔に紛動されない自分自身を鍛え上げる事である。」

*「信心」が仏界のある証明

 観心本尊抄「末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」~「人界所具の仏界」「信心即仏界」

*「一心欲見仏」~「一心に仏を見る」「一心を見れば仏なり」

 “だらけた考えで、成仏などできるわけがない。”

「身命を捨てるほどの事ありてこそ仏になり候らめ(p891)」「佐渡御勘気抄」

“心の師となるとも、心を師とせざれ(六波羅蜜経)”

*十界の「互具」は法華経だけの法門

   人界所具の仏界~凡夫がその身そのままで成仏できるのだという事を教えんが為です。

*宇宙も「百界」自分も「百界」

   宇宙も一個の大生命であり、我々も一個の生命である。生命であるという事で平等です。互具というのは、この生命の不思議な実相そのものを説こうとしている。

*ナルシシズム(自己愛)社会の罠

   豊かさの中で、なぜか苦しんでいる現代。

師子王の心の信心が仏界 (命に差別はない)

“成仏とは、仏になることであり、仏になろうとすることではない。”

魔を破るのと仏になるのは、同じことである。

「決して魔に紛動されない自分自身を鍛え上げる」

Ⅷ、十界互具(下)

宇宙全体としての十界互具

人界に仏界が具わっている。 ~ 「人界所具の仏界」

凡夫がその身そのままで成仏できるという事を教えんが為です。それを知

るのが観心です。

1、「空」とは何か

十法界(三種の読み方)

  • 十の法界  (空諦) ~ 個即全体(諸法実相)
  • 十法の界  (仮諦) ~ 全体即個(十界の違い)
  • 十即ち法界 (中諦) ~ 他の界に移ることなく、そのままで一切法を具している。

*部分(人生)がそのまま全体である。「一人の幸福に広布の全体が」

上から組織を動かそうとするのは、転倒なのです。

「叶ひ叶はぬは御信心により候うべし、全く日蓮がとがにあらず」

信心がなければ、十界互具と云っても言葉だけのことです。

・「我が己心を観じて」とは、御本尊を信ずること。

・「十法界を見る」とは、妙法を唱える事です。

・表の人を激励するだけでは(上から組織を見る)官僚主義です。

*「信心で勝とう」「信心で道を開こう」「信心以外にない」と決める事

* 生命の基底部を変える ~ 人間革命(境涯革命)

* 生命の「くせ」~ 奥底の一念を変える。基底部を仏界にしていくのが成仏です。

* 基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから悩み、苦しみがなくなるわけではない。しかし人生の根底が希望となり、安心

と歓喜のリズムになっていく。

  • 九界の労苦で仏界を強める。勤行唱題を根本に広宣流布に生き切る

飾らずに「ありのまま」ひたぶるに生きる「灰身滅智」「角を矯めて、牛を殺す」背伸びする必要もなければ、飾る必要もない。

「苦をば苦とさとり、楽をば楽と開き」(p1143)「四条金吾殿御返事」

2、死後の生命

「パスカルの賭けの理論」

死後の生命があるかどうか、理性ではどちらともいえない。これはカントが証明した。「死後の生命があるほう」に賭けその後に死んだとする。結果賭けに負けたにしても、何も損をしない。~ところが賭けに勝てばどうだろうか。勝てば幸福だし、負けても何も失はない。

*宗教を受け入れる事は、極めて合理的な選択である。

仏法で説く三世の生命観は自分に希望をもたらすだけではなく、人をも励まし勇気と希望をもたらす。

*ゲーテは“来世を信じない者は、みなこの世でも死んでいる”と!

Ⅸ、永遠の生命とは(上)

死後の生命 宇宙生命との融合 業のエネルギーの連続性(阿頼耶識・無意識)

1、九識論

五識(五根) ~ (眼、耳、鼻、舌、身)

六識(意識) ~  知性の働き

七識(末那識)~  無意識の領域

八識(阿頼耶識)~ 無意識

九識(根本浄識)~ 九識心王真如の都」・信仰者の胸中の肉団(御本尊)

「死から生」へ ~  死霊だなどと騙されていた(生命の波長に十界の違)

「神通之力」 ~   成仏する以外に神通も秘密もあり得ない。

2、「一心欲見仏、不自借身命」

Ⅹ、永遠の生命とは(下)

1、仏界の生死   大生命力で「永遠に前へ」

“本当は、死ぬ時のために信心するんだ。”~戸田先生の指導

2、生死一大事   ~  生死、人生にとってはこれほどの一大事はない。

3、方便現涅槃  ~  人間に永遠の仏を求めさせるための手段である。その心を引き出すために、仏は入滅という姿を見せる。

4、「臨終只今」  ~ 「師弟」という一点が寿量品の魂。師匠が生きてるうちに、気づいて頑張るのが臨終只今の精神

*戸田先生が、牧口先生の死を獄中で検事から聞かされた時から権力の魔性と戦い抜くことを決意されたのだと思う。

*牧口先生の獄死が、現代における広宣流布への「方便現涅槃」となった。

・弟子の境涯によって、同じ師匠が違って見える。

・弟子が成長した分だけ、師匠の偉大さが解かる。

5、「自我偈」  ~   自身が永遠の仏である。

6、才能ある畜生 ~ 「現代人への警鐘」

以上 要旨記述 2015/10/31

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