*「信仰」は、行動の因果ではない。「一念の因果」である。どういう一念で頑張るか、その一念に功徳がある。
頑張っても結果の出ないのは、一念が間違っているからであって、一念を定
め頑張ることです。
・「信仰」とは、方法がないから祈ることだ。方法があれば祈る必要はない、やればいいんです。道がないから祈る、それが南無。
*“不可能を可能にするのが信仰”
・病気は治るか治らないかではない。治すか治さないかであって、(本人次第)。
“絶対治すぞ”と決意すれば早く治る。これは信仰とは関係ない(決意次第)。
・信心していれば何とかなるというのは、迷信の一種ではないか。
功徳を受けてどんどん変わる人と全然変わらない人、悪くなる人がいるが
どこが違うのか? ~ 「一念の姿勢」が違うのです。
・前向きの信心 ~ 変わろうと決めている(前進する)
・横向きの信心 ~ 惰性と義務 (空回り)
・後向きの信心 ~ 不信と怨嫉の人 (後退する)
- 前向きに、強きで進め、過去は問わず。反省してもどうせまたやるんだから、生命が変らないとまたやってしまう。
・「怨嫉は謗法」だから、同志に怨嫉すると功徳はマイナス、罰になる。
怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰がでる。
相手が間違っていても同志だと怨嫉になる。 ~ 「仏法の法理」
信仰は心ですることであって、頭でするものではない ~ 「仏法の法理」
*すべて「善知識」として捉える
“愚痴を言わない、文句を言わない、怨嫉しない” ~ 「三悪追放」
・「信ずる」事とは、「疑わない」事。
「功徳の体験」を積むことであって、(活動体験だけではダメ)
*やらされた信仰には功徳がない。
・二世は生まれつき「惰性」。
・自分で決意しなければ真の信仰にならない。
*戸田先生の指導
“功徳を受けない信心と、儲からない商売はやめる事です”
幹部は成果の責任者ではない、しかし幹部は“やらせる信心”をしている
限り功徳はない。
<御本尊根本の意義>
・唱題ではなく、「祈り」が大事 ~ 自分と御本尊は一対一だから、きちんと祈れば叶う。
・なんとなく信心している人はお散歩信心、気分転換程度。やらないよりはましだが、でも変わらない。
・婦人部はほとんど 「成果の暴走族」祈っているのは「成果」だけ。
・男子部は勤行しない「活動の暴走族」。
・“決めて祈り、祈って動くこと”
意外とこれを決めないで動いている。
・“どうしたらいいかと祈っている人、”全く意味がない。
あたかも交番に行き 何処へ往けばいいでしょうか?
と聞いているようなもので答えがない。
御本尊が決めるのではない。「こうしたい」「こうなりたい」と祈る。
必ずそうなる。“困った、御本尊様”以上終わり。
簡単です。これを「南無」という。
・南無というのは“生命をまかせます、お願いします、あとはよろしく”。
でも結構任せていないのです。“お願いはしてみます、でもダメだろうな”と祈っている。出来ないと決めたら御本尊不信。
以上
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