法華経の智慧第二巻

御書関連書籍等

池田大作 著

譬喩品第三     「慈悲と智慧の馥郁たる結晶」

*法華経の七譬

・譬喩品第三の    「三車火宅の譬え」~三車を与えるのは方便、

・信解品第四の    「長者窮子の譬え」

・薬草喩品第五の   「三草二木の譬え」

・化城喩品第七の   「化城宝処の譬え」

・五百弟子授記品第八 「衣裏珠の譬え」

・安楽行品第十四の  「髭中明珠の譬え」

・如来寿量品第十六の 「良医病子の譬え」

*すべて衆生に対する仏の慈悲を明かす。生命の病を治す良薬なり

「法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に従えたり」(P1437新池殿御消息)

「大悲とは母の子を思う慈悲の如し」(P721御義口伝上譬喩品)

*その他の譬喩

・授記品第六の     「大王膳の譬え」

・化城喩品第七の    「三千塵点劫の譬え」

・法師品第十の     「高原で水を掘り出す譬え」

・寿量品第十六の    「五百塵点劫の譬え」

・薬王品第二十三の   「十喩」

・妙荘厳王品第二十七の「一眼の亀の譬え」

*弟子が語った法華経の譬喩も伝えずにおられない喜びが込められている。

「二十八品は正きことはわずかなり、讃むる言葉こそ多く候へ(P1242)妙密上人御消息

*樺俊雄教授(創大)

政界や財界の支配階級が自己の政策を推し進めるために、世論を自己の都合のいい方向に押し曲げるためにマスコミを自己の勢力の内に抱き込もうとしている。体制側は必ず最初はゆるやかな形でしか規制措置を出してこない。しかし後にはテンポを速めて急速に態勢を整えてくる。

ともすると私たちは、現実生活を離れた理論の中に仏法の深い真髄があるかのように錯覚しがちですが、足下の現実が仏法であるという事を、法華経の譬喩は教えてくれている。生活上の実証は妙法の功力を説明する譬喩です。

牧口先生の体験中心の座談会運動(大善生活座談会)が創価学会の原点

信解品第四 「信解」信仰と智慧のダイナミックな関係

「民衆が考え、民衆が賢くなり、民衆が選んだのでなければ真の民衆宗教とは言えない。」(サリバン博士との対談)

自立した、師子王の人間、盲信、狂信、イエスマンは真逆

大聖人自らも佐渡流罪から赦免で戻られたときに幕府からの寺の寄進をきっぱりと断ったと伝えられています。幕府に保護してもらおうなどという発想は、微塵も持っておられなかった。権力主体ではなく民衆主体です。

「四大声聞」が目覚めを語る

「長者窮子の譬え」大幹部の無気力を打ち破った舎利弗への授記。

自身がやってもいない事を他人にだけやれやれという、とんでもない慢心です。自分がやらずして人にやらせようというのは組織悪です。

阪神大震災の時一番大切なのは、お金では買えない命と空気と人間の思いやりでした。

*牧口先生の指導

生活のすべては最初は模倣である。他人が行っている事を見よう見まねで信じて生活する。 ~ 模倣から創造に進む、それが生活である。

「信」は人間の生の基本的条件です「信ずるか」信じないか」を選択することは出来ない。選択できるのは、「なにを信ずるか」という事だけなのです。

これを体系化したのが宗教です。

・諸法実相抄(P1361)「行学の二道をはげみ候うべし、行学たへなば仏法は有るべからず」

・法華経の信 ~「以信代慧」

理性は決して自己満足という傲慢に陥ってはならない。~ 現在の自己を超えた何かへの「信」なのです。「信」が知を清め、強め、高めるのです。

法華経の説法自体が信を大前提としている。(以信代慧)

舎利弗も自分の智慧ではなく「信」によって仏の悟りに入ることが出来た。

「開三顕一」 「仏知見を開き、示し、悟り、入らしめる」

随自意の教えは、易信であり易解です。しかし凡夫の想像も思惟も超えた仏の境涯は「難信、難解」です。だからこそ「信」を強調するのです。

その「信」は盲目的なものではなく、「文証、理証、現証」に基ずくものです。

*牧口先生の指導

医学の知識がなくても医者を信用することで病気を治す。次の三条件に合致する医者を選ぼうとするだろう。

1、 学歴、肩書、専門等を考えるのが文証

2、 多くの患者を治しているかどうか、これが現証

3、 治療法は合法的で納得できるものならば何の不安はない、これが道理すなわち理証である。

「法華経を信ずる心強きを名ずけて仏界となす」日寛上人

「信念亡き知識と理性亡き狂信に引き裂かれた人間社会を復興させる壮大な文明的挑戦、それは新しき信と知の結合です。」

薬草喩品第五 「個性を伸ばす智慧即慈悲」を

分け隔てのない仏の慈悲を譬えによって描いたのが薬草喩品です。

・三草二木の譬え(衆生の多様性)

三千大千世界(全宇宙)には多くの樹木や薬草が生えていて、それらは様々な種類があり(上、中、下)(大中小)の薬草と大小の樹木に立分けています。

それで三草二木と云います。厚い雲(仏)が空を覆い(仏の出現)平等の雨(仏の説法)種々の草木(衆生)が雨を受けるのが聞法に当たる。成長し花を咲かせ実を成らせるのは修行、功徳と例えられる。個々の人間という現実から成仏への道筋を明かすのが法華経です。

・釈尊の説法 ~ 四大声聞の領解 ~ 釈尊の述成 ~ 四大声聞の授記

「師弟の交流」「師弟一体」

「一人を大切に」 ~ 人間主義、一切衆生の成仏

法華経は他のどこにあるのでもない。「いまここ」にある創価学会の中に在る。

学会はその一人を絶対に幸福にするために戦ってきた。

全ての人を根本から救いきる秘薬が南無妙法蓮華経なのです。

「智慧即慈悲」「一切種智」

自分を見つめ境涯を高めた分だけ、他の人々への理解が深まる。智慧があるように見えても無慈悲であれば人を生かす事は出来ない。釈尊にはどの人も桜梅桃李の果実を実らせるという多様性の調和を見る。世界に対立をもたらすのではなく、豊かさをもたらすようにならなければならない。

ガンジーは非暴力の理想を説き、大規模な民衆運動を組織化していきました。

運動や組織と云うものは、命令や規則では長続きしない、強制で動かしてもうまくいかない。和気があって触発があってこそ真の民衆運動は成り立つのです。決まりきった答えを押し付けるような観念的指導では絶対にない。

大聖人は民衆を苦しめる権力者や権力と癒着する宗教者に対しては烈下のごとく怒り厳しく諌められた。

授記品第六  「授記」万人を絶対的幸福の軌道へ     

・「座談会にこそ学会の心がある」

たくさん集める事も大事ですが、「もう一度来たい、今度は友人と一緒に来たい」と満足できる座談会を作り上げていく事です。号令ではない、心です。人と人との語り合いです。笑いあり、涙あり、感動あり、決意と感謝、悩みや疲れに勇気と充実を庶民の「オアシス」それが学会の座談会です。」

・「受持即成仏」

成仏とはゴールに至るというよりも、無上道の軌道に入る(仏と同じ軌道を)

何があっても仏の心から離れないように生きていく。

この身を捨てて仏に成るというのは爾前権教の意であって、むしろそのような軌道を捨てる事が法華経のこの文の本意である(P731御義口伝上授記品)

仏の姿、実践と云っても菩薩行です。成仏しても菩薩道の軌道を歩み続ける。

称賛する心は確信を生み、妬みの心は自信のなさが生む。「称賛の心」は正しい平等を求めます。

・「出る杭は打つ」他人の足をひっぱって低い方で横並びを求める。

成仏への正しい軌道に入ることが法華経の「一仏乗」を信解する功徳です。

それを仏が保証するのが「授記」です。

「授記」の心 「一切衆生皆成仏道」 授記の要件は信解です

大聖人仏法は下種仏法です。妙法を下種する事

「難来るを以て安楽と意得可きなり」「三類の強敵」「三障四魔」これを乗り越えれば必ず仏に成りますよという保証

*ペッチェィ博士との対談

人間を置き去りにしてきた機械文明にも、人間自身が未熟なままに、子供が車を暴走させ喜んでいる状況。~どうすれば暴走を減速させ人類を正しい方向に向かわせることが出来るのか。「人間革命」しかないではないか。

正しい方向を目指す人間をつくろう。

牧口先生の大善生活実験証明座談会は、「信心即生活」

当時の座談会は、権力に対する精神闘争の戦場でもあったのです。(神札問題 

で特高刑事の監視の中)

このように座談会の伝統には、大聖人以来、牧口、戸田先生の偉大なる闘争の精神が込められている。

化城喩品第七 「因縁、永遠なる師弟の絆」人間の絆」

情熱がなく反省的な時代は「妬み」に支配される。それが定着すると、傑出したものを引き摺り下ろし、水平化させようとする。(ここに彼の主張の核心がある)

*キルケゴール(デンマークの哲学者)

「自分自身の使命を知らねばならない。そのために生き、そのために死のうと思える理想を発見することが必要なのです。」

・方便品から先ず仏は法理を説きました。舎利弗はわかった。次いで「譬喩」を聞いて「四人の声聞」は悟った。さらに多くの衆生を目覚めさせねばならない。そのために仏は何を説いたのか。

化城喩品のキーワードは「因縁」です。「三千塵点劫(長遠の師弟関係の始まり)仏の悟りは煩悩を断ずるのではなく、慈悲と智慧が煩悩や業を包み返す」のです。煩悩業苦の流転を押し返して慈悲と智慧の清流になる」

・十六王子の大通覆講

大通智勝仏の出家前の子供達(16番目の王子が釈尊)

「在在諸仏土、常与師倶生」自他共の幸福を願う心。この心に生きる事は至難。

煩悩、無明、欲望、エゴ、分断の心が妨げる、だから師が必要なのです。「師弟の因縁」「人間と人間の永遠の絆」

・最高の絆への感謝と感動

・「天台の一大事因縁」

衆生にこの機あって仏を感ず名けて「因」となす、仏機を承けて而も応ず、故に名ずけて「縁」となす(法華文句)

*ドブラーレ元会長(国際宗教社会学会)

創価学会の持つ最も重要な要素として、学会のリーダーシップについて代々会長の師弟の関係性という形で浸透している。組織的団結とだけ聞くとヨーロッパ人には理解しにくい面がありますが~師弟という人間の絆によって築かれるものであって、その指導性の中に団結の大きな力を感じました。

先輩後輩の関係の延長線上にあり~根底では同じ方向に向いた関係にある。

戸田先生当時「貧乏人と病人の集まり」と蔑まれた人々を「地涌の菩薩」なんだと教えてくれた。この言葉通り、久遠の使命を確信した人は広宣流布の大道を突き進んだのです。

「自身の久遠の本願を思い出し自覚する道、すなわち成仏の大道」です。

・「化城即宝処」~仏道修行の果てに成仏があるというのではなく、仏法を行じ弘める振舞いそのものが、すでに仏の姿なのです。

・広宣流布は流れそれ自体である。それを途中はすべて手段だと考える人間が出てきてはいけない、そういう人は目的のために人間を手段にし、多くの犠牲を生んだのです。「人間を手段にするな」が学会の叫びです。

「すべての活動を楽しんでいく」(私にはこの点が、あまり理解できないでいる)

五百弟子受記品第六・授学無学人記品第九

・声聞たちの目覚め ~ 「何と素晴らしき大願の人生」

「救われる人から救う人」へ ~ 「声聞への授記」「一切衆生への授記」

「全ての声聞は、本来菩薩である」「人間与よ人間に帰れ」(自分の原点に帰る)

・衣裏珠の譬え ~ 目覚めた喜び(本来の自分に戻る)

・酔いと無明

広宣流布のために働く事は、誰のためというよりは自分自身のためです。

学会を作ってきたのは絶対にインテリではない庶民が作ってきたのです。

二乗達に「生命の根源に帰れ」「大願を思い起こせ」と呼びかけてきたのが法華経である。「何よりも民衆に学べ」 ~ 人類全体が放蕩息子であり貧人なのだろうか。

法師品第十  「法師」~「民衆の中に生きる精神の指導者」

「法華経は滅後のため」何が正義で何が間違いか解らなくなった時代に人はどう生きるべきかという問題。「求道即救済」救済即求道」「宿命を使命に」

・真実を語るのが折伏

*戸田先生の指導

折伏をすなおにどんどんしなさい。人を憎んではならない。けんか、口論はいけない。まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神が出来ればよいのです。やさしく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです。「大切な事は、真心が通じますように」との祈りです。

・衣座室の三軌

  • 慈悲の部屋 ② 柔和忍辱の心 ③ 一切法空の座」執着を乗り越える

・「願兼於業」 ~ 一念の転換

一番苦しんでいる人を、一番幸福にするための仏法です。

以上 要旨記述 2015/10/08

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