池田大作
第1回、「開目」 ― 大聖人に目を開け、民衆に目を開け
- 「生命の世紀」「人間の世紀」の樹立のため
- [講義] ・無技術の講義
- ・技術の講義
- ・芸術の講義
- ・佐渡の過酷な環境の中で御執筆
- ・発迹顕本と「開目抄」 ~ 竜の口の法難を機に発迹顕本
- ・不惜身命の精神に目を開け ・障魔と戦いきる人が末法の師
- “魔競はずは、正法と知るべからず”(p、1087)
- “詮ずるところは天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん”
- 種々の大難出来すとも ~其の外の大難~我日本の柱とならむ、われ日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願いやぶるべからず
- ・忍難、慈悲に目を開け
- されば日蓮が法華経の智解は天台、伝教には~難を忍び慈悲の優れたることはをそれをもいだきぬべし(p202)
- ・根底は民衆への慈悲と信頼 ~ 我並びに我が弟子 ~(p234)
- ・万人の仏性を開く「開目」の連帯
- 御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈なる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことを願うものである。
第2回、「主師親の三徳」 ― 忍難と慈悲で民衆仏法を開く
- 全体を貫く主題は「主師親の三徳」
- ・習学すべき思想、宗教
- 儒教、道教などの中国の諸教、インドの外道と内道である仏教
- ・真の主師親と真の成仏の因果
- 「開目抄」前半では三徳具備。真の成仏の法は「文底の一念三千」にあり。
- ・法華経の行者の実践に主師親が具わる。
- 「開目抄」後半では「成仏の因果」と「法華経の行者」としての戦い
- *何故法華経の行者(大聖人)に諸天善神の加護がなく、迫害者たちに現罰がないのか。という疑問(疑難)に答えられる。
- “詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん”(p232)
- 主師親の三徳具備の人本尊であることを宣言・(末法下種の主師親)
- ・宗教観の転換~革命的な転換(凡夫成仏の「先駆」手本)
- 「権威主義の宗教」から「人間主義の宗教」へと転換
- 神や仏に服従し、僧侶に拝んでもらうという権威的な宗教観を覆す。
- ・聖賢と凡夫の立場 ~ 真理と価値の混同(牧口先生の指導)
- 聖賢が出て、万人が信じ実践すべき根本法を確立した後は私達凡夫は、その結論を実践して結果を体得してからその法理を理解すればよい。
- 牧口先生にとっては、現実に苦悩を除き幸福をもたらす事が目的であり、
- そのための理論は手段に過ぎない。
第3回、「文底」―全人類を救う凡夫成仏の大法
- 凡夫成仏の要法「文底の一念三千」
- 十界互具、一念三千~九界即仏界、仏界即九界
- ・「信」・「祈り」・「唱題」 ~ 身・口・意の三業 「事行の南無妙法蓮華経」
- 文底は「文・義・意」の「意」にあたる。
- “すがる信仰” ~ 本果の釈尊(自分の外にいる)と“自身の内に仏界を表わすという成仏思想”
- *“宗教的精神を忘れるな”
- 硬直化し、形骸化し細分化されたそれぞれの教義に囚われ、争い合う末法
- (闘 言訟・白法隠没)時代にあって永遠的、絶対的なものを人間の中に見て人間生命を輝かせていく事を願う精神を大切にしたい。
- (仏界湧現、十界互具、一念三千)
第4回、本因本果 ― 信心で開く永遠の仏界、無限の菩薩行
- 「本因本果の法門」~法華経本門寿量品第十六に説かれる成仏の法
- 「我実成仏巳来」「我本行菩薩道」の実践
- ・爾前二種の失 ~ ①一念三千が説かれていない。②差別を設けている。
- ・発迹顕本と本因本果
- 「爾前迹門の十界の因果」を悉く打ち破るのが発迹顕本。
- “仏界の力で「勝利者、主体者」として一人立つ”
- 「勇気ある行動・自在の智慧・大誠実の対話」
- ・「無始の仏界と無始の九界」~「真の十界互具・百界千如・一念三千」
- 凡夫が初めて妙法を聞いて信受し、果てしない菩薩道の実践を決意するのが本因である。そして凡夫の生命に永遠の仏界の生命を湧現することをもって本果とする。
- ・無明を破るのが「信」です。 ~ 永遠の妙法への「信」
- 大聖人が顕わされた御本尊への「信と唱題」です。
第5回、五重の相対 ― 生命の因果と人生の根本指標
- 因果は思想、宗教の肝要 ~ 高低、浅深を問う
- ①内外相対 ~ 外道と自らの意志と行動で運命を切り開く内道[仏教]
- ②大小相対 ~ 大乗(煩悩即菩提)と小乗(灰身滅智)
- ③権実相対 ~ 権教(方便)実教(法華経)
- ④本迹相対 ~ 歴劫修行から即身成仏(一身に九界も仏界も常住)
- ⑤種脱相対 ~ 御本尊を明鏡とし、大聖人を手本として
- ・末法流布の大法 ~ 価値を創造しなければ、法の存在意義は生まれない。
- 文底の仏法では、大聖人が凡夫のままで御本尊を顕わされた。これを明鏡とし、大聖人を手本として、自身に仏界があると深く信ずることにより、直ちに自身に仏界が開き顕わす事が出来るのです。
- ・「因果一念の宗」 ~ “心こそ大切なれ”
- *人生の根本目的を体現する人格 ~ 「人本尊開顕」の書
- 凡夫成仏の手本である法華経の行者、日蓮大聖人
第6回、「誓願」 ― 大難を越える生命奥底の力
「最深の哲学」「最強の信念」
・謗法とは、人間の成仏を信じられない無明の生命
- 人間からかけ離れた神仏を説き、神仏と人間の間に聖職者という媒介者を置く権威主義的な宗教の方に傾斜していく人が多い。
- 法華経の行者への迫害の根底には、万人成仏を説く正法への不信、謗法が横たわっている ― (法華経勧持品)
・正・像法時代に人間からかけ離れた仏を説く分だけ権威主義化していった。
- (阿弥陀仏・大日如来)末法に入り法華経の真偽がわからなくなり、自宗への執着心が強盛になり法華誹謗の仏教宗派が横行した。~ 「悪鬼入其身」
- “元品の無明は第六天の魔王と顕れたり”(p997)
- すべての人の生命に巣食う「元品の無明」という根源的な無知で、万人成仏の妙法を信受できず、成仏することを最期まで妨げるものとなる。
- 謗法の僧を支持する民衆の無明こそ克服すべきである。~ 生命の変革
*妙法仏性への信
・不軽菩薩の礼拝行(仏性を信じ抜く)
・舎利弗への「乞眼の婆羅門」の責め(仏性に対する「信」を失う)
第7回、法華経の行者 ― 忍難と慈悲に勝れる正法の実践者
激しく執拗な迫害は怨嫉から起きる。
・大事の難四度
- ①松葉ケ谷の法難 ②小松原の法難 ③竜の口の法難 ④佐渡流罪
- 少々の難かず知らず ~ 悪口、讒言、嫌がらせ、追放、罰金
- 性根は怨嫉[妬み、恨み] にあり敵視する感情である。
- 怨嫉の根本は、妙法に対する無知であり不信「元品の無明」である。
- 「悪鬼入其身」 ~ 魔競はずは正法と知るべからず(p1087)
- 忍難と慈悲の力で法を体現
- 願兼於業の悦びの信心 ~ 「宿命を使命に変える生き方」
- “難来るを以て安楽と意得可きなり”(p1087)
第8回、法華の深恩 ― 成仏の大法弘める法華経の行者を守れ
法華経の行者の要件 ~ Ⅰ、誓願 2、忍難 3、慈悲 4、悦び
*諸天善神による法華経守護をめぐる問題
- 「世間の疑」と「自身の疑」 ― 「此の書の肝心、一期の大事」
- “大いなる疑”を強めながら解決を示す。
- ・諸天善神の守護の本質として、謗法充満の国土全体を捨て去っているから守護の働きがないという。答えとしては一応成り立つようだが
- 「詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん」(p232)
- ・“成仏の法に背く謗法の悪と戦う人”
- ・「二乗」に対する法華経の深恩と「菩薩・天・人」に対する深恩
*才能ある畜生と喝破される。
- 末法、大聖人御在世当時の諸宗の輩、悪比丘が出来し、正法を隠します。
- それにより、法華経の真実が見失われやがて本尊に迷う。
- そして寿量品の仏を知らない諸宗の輩は「不知恩」であり、仏法を知っているように見えてその実は「才能ある畜生」であると鋭く喝破されている。
- ・御義口伝において「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
- (元品の法性が諸天善神と顕れるのです)
*開目抄が「人本尊開顕」の書と云われる所以です。
第9回、六難九易 ― “浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり”
仏意・仏勅を受けて起こす法戦
- 末法においては、謗法と戦ってこそ法華経の行者である。
- 見宝塔品第十一の三箇の勅宣①滅後弘通への付属②令法久住③六難九易
・仏自身が立てた教判
- 法華経は随自意の経で難信難解であり、他の諸経は随他意の経であり易信易解である。易信易解の浅きを捨てて、難信難解の深き法華経につくべきであるというのが仏意なのです。
・所対を知らない諸宗の教判(所対とは比較対象を知らない事)
- 「四宗の元祖」華厳、法相、三論、真言~歪んだ眼で法華経を見ていた。
- 法華経は「己今当」~法師品に説かれているように最勝の教えである。
- (己に説き、今説き、未来に当に説くであろう)
- 「当世、日本国に第一に富める者」~「勇者の心」「丈夫の心」「仏の心」
第10回、提婆品の二箇の諌暁
変毒為薬・即身成仏の法で万人を救え~「活の法門」
- ・宗教の本義を示す悪人成仏・女人成仏
- ・悪世の成仏の道を開く
- ・一闡提をも救う変毒為薬の妙 ~ 提婆(悪人)の成仏
- ・末代女性の成仏の道を踏み開ける ~ 竜女の成仏(即身成仏)
- ・三道即三徳の妙を信ずる
- (変毒為薬の毒とは、煩悩、業、苦の三道、薬とは、法身、般若、解脱の三徳)
- ・法華経は「内典の孝経」 ~ 父母も又即身成仏せん。
以上 要旨記述 2014/09/26
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