御義口(上)(三) 法師品第十 見宝塔品第十一

法師品十六箇の大事

第一、法師の事    (人法一箇の文)

 「法とは諸法なり。師とは諸法が直ちに師となるなり」

 総勘文抄に、「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御座せし時、我が身は地、水、火、風、

 空なりと知ろしめして即座に悟りを開き給いき」

第二、成就大願、  衆生故、生於悪世、広演此経の事

 末法において、法華経を広める人は大菩薩が願って悪世に生まれてきたのである。

 地涌の菩薩の使命、目的を明かされている。

 「大願とは、法華弘通なり」  ~  人間勝利の新文化実現の事

第三、如来所遣行、如来事の事

 地涌の菩薩即創価学会員こそ如来の使いである。われらの信心は、この如来の使いを自覚する

 かしないかによって決まる。ゆえに大確信に立って進むべきである。

第四、与如来共宿の事    (男女同権の原理を説かれている)

 日々の勤行、刹那の題目等は最も有意義に生活できる因業であることを説いている。

 信行を積み重ねて行く人生は地味ではあるが、最も尊く、正しくそして着実に大福運を積んで

 いくのである。唯忘れてならぬことは、自行化他にわたる信心である事です。

第五、是法華経蔵、深固幽遠、無人能到の事

 開目抄下に、「智者に我義やぶられずば用いじとなり。その外の大難風の前の塵なるべし

 (乃至)ちかいし願いやぶるべからず。」

第六、聞法信受、随順不逆の事

 月水御書(P、1201)に、「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八

 品の中に勝れてめでたきは、方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり。

 されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」とある。

 題目を正行とし、方便、寿量を助行として、所破借文、所破所用の上から本迹二門に随順して

 さからはないというのである。

第七、衣座室の事    末法の三軌(大聖人の振る舞いのこと)

 「柔和忍辱の衣」 「空座に居る」 室とは慈悲に住して弘むる故なり。

第八、欲捨所懈怠、応当聴此経の事

 宗祖云く「専ら題目を持ちて余文を雑えず」云々  ~  精進行

 爾前の経経を懈怠の経であると断言され、堕落させ、不幸にするとし、国を亡ぼす経であるとの

 結論である。

第九、不聞法法華経去仏智甚遠の事

 妙法のみは、生活の原理であり、好むと好まざるとに関わらず、あらゆる人々が絶対に必要とす

 る法理である。聞く聞かないという相対的な法則では決してない。

第十、若説此経時、有人悪口罵、加刀杖瓦石、念仏故応忍の事

 三類の強敵の文。折伏して反対されたからといって感情的になってはいけません。応忍の二字

 を心に入れて行じていくべきです。

第十一、及清信士女、供養於法師の事

 船守弥三郎許御書(P、1445)

 法華経を行ぜん者をば、諸天善神等或いはおとこととなり、女となり形をかへさまざまに供養して

 たすくべしという経文なり。弥三郎殿夫婦の士女として生まれて、日蓮法師を供養する事疑い

 なし」佐渡御流罪時の阿仏房、千日尼夫妻の命がけの活躍はこの経文通りである。

第十二、若人欲加悪、刀杖及瓦石、則遣変化人、為之作衛護の事

 諸天の加護の力を述べたものである。自分が変れば、国土も対境も周囲の人々も皆変る。

第十三、若親近法師速得菩薩道の事

 仏果を目指して進むときは、菩薩道に精進するのである。

第十四、随順是師学の事   (師弟論)

 *戦後浸透した民主主義も真の意義を理解せず自主性も確立しないまま受け入れたゆえか、

 師に対する観念がほとんど意識されなくなって、まことに不幸な事と言わねばならない。

 人生に於ける根本的な問題であるべき師弟の道を、全く忘れてしまったかのようである。しかして

 師といっても小、中、高、大学の師、スポーツ界の師、文学、哲学の師、医学、科学、経済学

 の師、、芸術の師、職場の師等々多種多様の師がある。だがこれらの師は根本的な師とはなら

 ない。なぜなら彼等に人生を指導しきれるものではないからである。

 根本的な師匠こそ、日蓮大聖人であり、法の上に於いては南無妙法蓮華経であると云えよう。

第十五、師と学との事 

 「師も学も共に法界三千の師学なり」とは師弟不二論、境智冥合論である。

 我学会こそ、個人に正しき人生観を確立せしめ、そして幸福な社会建設のために、和合僧とい

 う一つの方程式により、訓練教育して、その目的を達成せんとする団結ある団体である事を銘記

 されたい。

第十六、得見恒沙仏の事

 「見宝塔」~多宝仏(御本尊)一念三千を開悟する文のことである。

 「妙解」とは”信解”をいう。「妙行」とは”以信得入”、「妙証」とは”以信代慧”を指す。

<見宝塔品第十一>     (宝塔品二十箇の大事)

第一、宝塔の事

 阿仏房御書(宝塔御書P、1304)に、「南無妙法蓮華経ととなうるものは、我が身宝塔にして

 我が身又多宝如来なり。」宝塔即本尊、本尊即わが当体の御文なり。

 「今、阿仏上人の一身は、地、水、火、風、空の五大なり、この五大は題目の五字なり、然れば

 阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり。」

第二、有七宝の事

 七宝~聞、信、戒、定、進、捨、斬(七聖財)。頭上の七穴

第三、四面皆出の事     (御本尊の功徳を明かす文)

 日寛上人はこの御本尊の功徳について「祈りとして叶わざるはなく、罪として滅せざるは無く、福

 として来たらざるなく、理として顕れざるなきなり」と。

第四、出大音声の事     (法力、仏力の浅深、高低を明かす文である)

 多宝如来が宝塔の中から大音声を出して、釈迦の説法の真実なるを証明するところなり。

 如説修行抄(P、502)に、「吹く風枝をならさず、雨壊を砕かず、代は義農の世となりて、今生に

 は不詳の災難を払い長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ、現世

 安穏の証文疑い有る可からざる者なり。

第五、見大宝塔住在空中の事

 大宇宙への還元の意なり。(住在空中、虚空会の住す)

 一念、精神、意識、境涯等色心不二の哲学

第六、国名宝浄、彼中有仏、号白多宝の事

 「宝浄世界」とは母の胎内をいう。生命出生のもっとも大事なる意義をば「煩悩の於泥の中に、

 真如の仏あり、我等衆生のことなり。」

第七、於十方国土、有説法華経、処我之塔廟、為聴具経故、涌現其前、為作証明、讃言善哉の事     (多宝如来の誓いの言葉)

 「法華経とは、我等衆生流転の十二因縁なり」

 三種の法華①釈尊の法華経二十八品②、天台の摩訶止観③日蓮大聖人の南無妙法蓮華経

 日女御前御返事(御本尊相貌抄P、1243)に、「されば首題の五字は中央にかかり、四大天王

 は宝塔の四方に座し釈迦、多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢、文殊等舎利弗目連等座を屈

 し、日天、月天、第六天の魔王、竜王、阿修羅、其の外不動、愛染は南北の二方に陣を取り、悪

 逆の達多、愚痴の竜女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神、十羅刹女等

 加え、日本国の守護神たる天照太神、八幡大菩薩、天神七代、地神五代の神々、総じて大小の

 神祇等体の神連なる。其の余の用の神あにもるべきや」

第八、南西北方四推上下の事

 仏が白  の光を東方に放ち、又南西北方、四方十方を照らすのである。十方とは全宇宙あます

 ところなきをいう。下山御消息(P、350)に、「起世経に云く諸の衆生ありて放逸を為し、清浄の

 行を汚す故に天雨を下さず」と。序品第一に、「仏眉間白もう相の光を放ちて東方万八千世界を

 照らしたもうに、周扁せざることなし。下、阿鼻地獄に至り、上阿迦尼屯天に至」

 御義口伝上(P、712)に、「白もうの光明は南無妙法蓮華経なり~白もうの光明は中道なり、

 宝塔品には、「南西北方、四推上下白もう相の光の所照の処も亦復是の如し」

 瑞相御書の「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらわし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛んな

 れば、天に凶変、地に凶天出来す。~」

 総勘文抄に「是れを以て明らかに知んぬべし、天崩れば我が身も崩るべし、地裂けば、我が身も

 裂くべし。然るに此の五大種は過去、現在、未来の三世は替わると言えども、五大種は替わる事

 なし」生命の本源的解決無くして、真の人類の幸福の前進は決してありえない。

第九、各さい宝華満掬の事

 宝華とは合掌をいみする。方便品第二の「合掌し敬心を以て具足の道を開きまつらんと欲す」

第十、如却関やく開大城門の事

 門のかぎを開く。~成仏するのに妨げとなるいろいろな障害物を除き、成仏する機根になること

 を表している。「仏知見を開く」

 折伏行も題目も教学も、一切の学会活動は、我己心の釈迦、多宝をハッキリと見るためである。

 苦悩の社会を悠悠と遊戯しゆく人生をいうのである。信心の目的でもある。

 方便品第二(P、716)に、「開とは信心の異名なり(乃至)信心の開仏知見を以て正意とせり」

第十一、摂諸大衆皆在虚空の事

 生死即涅槃の文。「開在虚空」とは死の相なり。

第十二、譬如大風吹小樹枝の事

 「法華折伏、破権門理」。南無妙法蓮華経と唱えて折伏していく姿というものは、大風が吹くよう

 なものだ。宝塔品に「如清涼池、譬如大風、燃大炉火」とある。

第十三、若有能持則持仏身の事

 「受持即観心」「即身成仏」の奥義

第十四、此経難持の事

 教行証御書(P、1282)に、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」

 御義口伝上(P、750)に、「難来るを以て安楽と意得べきなり」転重軽受は仏法の大法則なり。

 四条金吾殿御返事(此経難持)に、「受くるはやすく持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。

 此の経を持たん人は難に遭うべしと心得て持つなり。」

第十五、我則歓喜諸仏亦然の事   (題目を唱えることの喜び、歓喜の御文である)

第十六、読持此経の事     (受持、読  の二行の事)

 報恩抄に、「日本乃至漢土、月氏、一閻浮提に人ごとに有智無智を嫌わず、一同に他事を捨て 

 て、南無妙法蓮華経と唱うべし」

 名聞名利にとらわれず、ひたぶるに題目をあげてこそ、御本意に叶う。

第十七、是真仏子の事

 戸田先生の指導に、「学会は宗教界の王者であり、思想界の王者でも有る」と。

第十八、是諸天人世間の眼の事

 諸仏の出世の本懐は『一大事因縁」でありすなわち衆生をして仏知見を開かしめ、示し、悟らし

 め、仏知見の道に入らしむる事にあると説かれている。(開示悟入)

第十九、能須  説の事

 折伏は大事であることを説かれた文であり「能の一字之を思うべし」とある。折伏は慈悲の行為な

 り。自分の利益や感情や名聞名利に捉われるような事があっては、最早折伏精神とは云えない。

第二十、此経難持の事    (此の経文にて三学倶伝するなり)

 報恩抄に、「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」

以上 要旨記述 2013/02/10

コメント