異体同心事 希望の祭典(御書に学ぶ)より

著者:池田大作

*確かなる「絶対勝利の軌道」

「師弟不二」と「異体同心」は車の両輪

・師匠の教えのままに、生き抜けるかどうか ⇒ 師匠に呼吸を合わせる事

・清浄な学会の組織を攪乱するものを追放せよ ⇒ 戸田先生の指導

<背景と大意>

駿河の地(熱原)はいつ法難が起きても不思議ではない状況にあるからこそ、魔を打ち破るカギは、どこまでも信心の団結にしかない事を教えられている。

信心の団結こそが第六天の魔王を破る唯一の武器である。

「同心とは」広宣流布を我が使命として自覚し、実践しぬいていく師弟不二の信心にこそ同心の核心があります。

「異体」との仰せがどこまでも重要です。 ⇒ (甚深の意味がある)

 一人一人の人間がこの仏性の智慧を現す事によってのみ仏法における異体同心が成り立つのです。一人一人が我執を超えて最高の可能性と個人を発揮しゆくところに、絶対勝利の軌道になっていくのです。

・決して束縛や画一化による団結ではなく、一人一人の生命における根本的な開放による仏性」の智慧の発揮

・異体とは「あらゆる人が人材」「あらゆる人が最高の人生を」という仏法の大鉄則に裏付けされている表現であると言えます。

司馬遷の「史記」に「殷周戦争」として有名な戦の例を挙げられている。

三千年以上も昔(紀元前11世紀)の中国「殷王朝」の紂王は70万騎の大軍を擁する。それに対する周の武王は800諸侯(4万5千人)の軍勢であった。

・武王の軍は「悪政を許すな」という道義のために諸侯が結集した(異体同心)

・紂王の軍は、形は王を守る兵士であったが心は王と異なっていた(同体異心)

 組織論から見れば実践上の急所は、リーダーの姿勢です。

 中心者が一人立ちあがることから、「異体同心」が始まります。

 指導者が真剣で誠実であれば、多くの人が共鳴して異体を同心にしゆく団結が生まれます。反対にトップが臆病で権威的であれば団結は生まれない。

 「史記」によると、紂王は「弁舌に長け頭の回転が早く優秀」であったがゆえに、己のどんな非をも正当化し臣下を無能呼ばわりし、ひたすら自分の勢威を誇っていたとされている。

「慢心」のリーダーの下からは、団結は生まれない事は歴史の教訓です。

 周の代の700年は文王の礼孝によると大聖人は記されています。「文王」が太公望という優れた師を迎え先達(年配者)を尊敬して大切にしたと仰せです。

 民衆の力を高めるためにリーダーが「一人立つ」ところから一切が始まる。

 その理念に同志が賛同し糾合し「異体同心」の実践で悪と戦い悪を破る。

・真のリーダーとは、独裁者とは異なり同時に大勢の真摯な意見に耳を傾けるものです。特に今は中核となる人たちとよく話し合う事が大事です。

 何でも協議する事です。「対話」の力でスクラムを拡大させていく、そうすれば学会の組織はもっと発展していきます。

 何をなすべきか、何を協議するか、絶えず心を配る。

・「一人の心なれど二つの心あればその心たがいて成ずることなし」 ~

・自身の一念の変革から(同心の大切さ)

 「個性があり、違いがある」からといって差別し、排除することがあってはならない。「自他彼此の心なく」がどこまでも重要です。

 「自他彼此の心」とは自己を孤立化させ絶対化しその自己に執着する「我執」から生まれる「悪と不幸」の心です。

・人により時により軽蔑、憎しみ、妬み、恨み、高慢、悪意、不機嫌、憂鬱、頑迷、短気、裏切り、不知恩など悪の心として現れる。

“水魚の思いをなして”とは「親和」の思いです。

 私達は異体同心を目指して「人間革命」していく中で我執を破り「身軽法重の信心」を確立。

・心などと云うものは縁に粉動されてどうにでもなってしまう。号令をかければ簡単にできるなどと云うものではない。 (戸田先生の指導)

・熱原の信徒たちはいかなる権力の迫害にも屈する事無く「魂の勝利」の実証を示しました。「異体同心」の躍動の中では、すべての人は「妙法蓮華経」の一法が「人華」として開花した勝利の姿を現しているのです。

「分断は悪、結合は善」

一面から言えば、築いてきた「異体同心の哲学と実践」は今世界で注目される段階になったともいえる。

「文明間対話」「宗教間対話」も時代の要請であり、不可欠な行動になっています。いわば人類全体が「異体同心」を模索している。

・人間の「根本善」の開発のために「対話」が重要視される時代となっている。

以上 要旨記述

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