御義口伝 神力品第二十一 嘱累品第二十二

神力品八箇の大事

第一 妙法蓮華経如来神力の事

寿量品第十六の文底秘沈の大法。妙法蓮華経を上行菩薩に付属する儀式

[題号の二つの読み方]

一つは、如来とは御本仏日蓮大聖人、神力は三大秘法の題目

一つは、如来とは、衆生の仏界の生命、神力は諸天善神の働き。(依正不二)

「惣じて如来とは、一切衆生なり、別しては日蓮の弟子檀那なり」

“南無妙法蓮華経と唱えた時、己心の仏界が湧現し、諸天善神が力を得て幸福生活へと導いてくれる。”

法華初心成仏抄(P557)に「凡そ妙法蓮華経とは、吾等衆生の仏性と梵天、帝釈等の仏性と舎利弗、目連等の仏性と文殊、弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名ずけたるなり、故に一度、妙法蓮華経と唱えれば一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王、帝釈、閻魔、法王、日月、衆星、天神、地神、乃至地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天、一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺なり」と。

第二 出広長舌の事

 古代インドでは、真実であることを証明するのに舌を出すのが風習であった。

 法華経の真実に対する証明がいかに強いものであるかをこの広長舌という法理を以て顕わしている。我らが受持する大御本尊は、法華経本迹二門の極理であり、空間的には、大宇宙を治め、時間論的には永遠を含んでいる。

 したがって、御本尊を信じ、題目を唱え境地冥合するならば、大宇宙の一切の功徳を一身に集め永遠の生命を覚知できるのである。

第三 十方世界衆生、宝樹下、獅子座上の事

 仏法の究極は、師弟相対、師弟不二にあると言っても過言ではない。

如説修行抄(P502)に「法華折伏、破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなく攻め落として法王の家人となし、天下万民、諸乗一仏乗となって妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨、壊を砕かず~」云々と。

第四 満百千歳の事

 十神力の第二、通身放光の中で、百千歳を満たす。一念三千の哲理を「満百千歳」と説いたのである。

三世諸仏総勘文抄(P563)に「本覚のうつつを以て我が心性をただせば生ず

ずべき始めも無きが故に死すべき終わりも無し、既に生死を離れたる心法に非ずや、劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず~

およそ、時間と云い、空間と云うものは本来生命現象を考察するための一つの仮定である。したがって、本質的には相対的なものであり、一瞬は永遠を含み、永遠は一瞬に凝集される。又、大宇宙は一微塵におさまり、一微塵は即大宇宙と等しいのである。何と深い偉大な生命哲学ではないか。アインシュタインの相対性理論なども、この深遠な生命哲学の一端をようやく解明したにほかならない。

第五 地皆六種震動、其中衆生○、衆生樹下の事

 地とは国土世間、其中衆生とは衆生世間、衆生樹下とは五陰世間をいい、

一念三千分明である。一念三千とは、われらの一念が生命、社会、国土の現象も動かし、決定していくとの偉大な哲理である。

 王仏冥合、仏法民主主義というも、所詮は一人一人の一念の変革にあり、

折伏による人間革命の遂行以外にないのである。

第六 娑婆是中、有仏名、釈迦牟尼仏の事

 末法において本化地涌の菩薩が三大秘法の南無妙法蓮華経を大忍辱の力を以て弘通することを娑婆と云うのである。

 いま我々はあらゆる批判や、悪口を浴びつつ、広布達成を目指し前進する時

 経文に照らし、道理に合わせて学会が正しい行き方をしている事の証明なりと確信するのである。

第七 斯人行世間能滅衆生闇の事

 上行菩薩即日蓮大聖人が御出現になるとの衣文。

百六箇抄(P854)に「久遠名字より己来た本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」云々と。

曾谷殿御返事(P1055)に「釈尊より上行菩薩へ譲り与え給う然るに日蓮また日本国にして此の法門を弘む、又、是には、総別の二義あり、総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず、輪廻生死のもといたらん」

顕仏未来記(P507)に「我が言は大慢に似たれども仏記をたすけ、如来の実語を顕さんが為なり~」と。

諌暁八幡抄(P588)に「天竺国をば、月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国ば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東へ向へり

 月氏の仏法の東へ流べき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず、在世は但八年也日は光明、月に勝れり五五百歳の長期闇を照らすべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無き故に、末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり、各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」と。

第八 畢竟住一乗○是人於仏道決定無有疑の事

 広宣流布を成し遂げよとの地涌の菩薩に対する仏意仏勅の言である。

 「一乗に住す」とは、妙法を心の住処とすることである。この五濁悪世の世を生き抜く以上、様々な泥をかぶり、様々な人々や、物の考え方にも接していかなくてはならないし、時にはそれらを用いていかざるを得ない場面にも出会うかもしれない。だがいかなることがあっても、御本尊のもとに、信心の心に戻って来ることである。

<嘱累品第二十二> (嘱累品三箇の大事)

第一 従法座起の事

 塔外の儀式(三摩の付属)~迹化の菩薩への付属(頂きを三度撫でた)

 身口意の三業にわたって、仏の教えを実践することにより三諦(化、空、中)三観(報身、般若、解脱)を得て即身成仏するという。

 宝塔品第十において、多宝の塔が湧現し、二仏並座して塔中における説法の儀式が始まる。これは大御本尊の相貌を顕わしている。

しかして、神力品第二十一の儀式(地涌の菩薩の上首上行菩薩への付属)を終え嘱累品二十二に入り、釈尊が「法座より起った」という事の意義は塔外の儀式に移った事を顕わしている。

第二 如来是一切衆生之大施主の事

三世諸仏総勘文抄(P563)に「八万四千の法蔵は我が身一人の日記文書なり」

崇峻天皇御書(P1173)に「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財最も第一なり」と。

 物質的豊かさが増進すればするほど、精神的な虚しさが深刻になりつつあることも事実である。「心の財とは何か、たんなる唯心哲学などでは解けないであろう。大生命哲学の上に立った最高唯一の宗教、日蓮大聖人の大仏法以外に解決の道はない。」

第三 如世尊勅当具奉行の事

 諸処の菩薩が、仏前において誓った言である。

 日蓮の門下が、諸天善神や菩薩たちに、広宣流布のために働けと諌め曉するのはこの誓いの文を依りどころとしているのである。

聖人御難事(P1190)に「法華経守護の梵釈、日月、四天等このみ守護せずば仏前の御誓むなしくて無間大城に堕つべしとおそろしく想う間今は各々はげむらむ」と。

 大聖人は諌暁八幡抄や種々御振舞御書に拝される如く、諸天善神、諸菩薩を厳しく叱責されている。

以上 要旨記述 2013/08/20

コメント