「海の文化」について 所感

1、「海の文化」についての考察

「村の文化」とは対照的で、開放的である。しかも、学会三代の会長は全て不思議にも「海の文化」出身です。

日蓮大聖人様は猟師の子、初代牧口先生も柏崎荒浜の猟師の生まれ、戸田先生は石川の猟師(北前船の船長の子)、池田先生は江戸っ子で海苔屋の息子。 共通性として着目すべきは、いずれも国家のために受難の歴史を歩まれ今日に至っています。

日蓮大聖人におかれましては、時の最高権力者への国家諌暁で渡り合い、初代会長牧口先生は時の軍部国家主義と真っ向勝負を挑まれた。

これが三代の会長の師弟不二の根底にある創価思想なのである。

在家仏教運動と牧口教育学とは、人間主義を前提にスタートした運動で、元々宗門側にはなかったものですから、“信徒は大きな顔するな”といった体質がずっとあり、 まさに「村の文化」と「海の文化」の対決です。

2、「村の文化」の特色は、

“世間体を気にする、長いものには巻かれろ、白黒はっきりせずに、出しゃばらず(図々しいのは良くない)、人の眼を気にする”といったように、顔見知りの眼を気にする反面「旅の恥はかき捨て」と言った面も存在する。

これからの時代は“人道的競争の時代”であると牧口先生は予言されていますが、出過ぎた真似をすると村八分に会い、白黒はっきりさせる人は嫌われるといった「村の文化」がのさばるような“自分を殺す”ような社会ではなく、つまり、真面目でいい人(思いやりがあって、心優しい人)がもっと言いたいことを(正義の主張)を堂々としていく事です。

学会の信心が、いつの間にか「村の文化」になっているきらいがある。

真面目に頑張っている人が意外と開けないで、そうかと思うとチャランポランで要領よく立ち回っている人のほうが意外とうまくいっている。人に持ち上げられて益々開けていく。

正直者が馬鹿を見て、悪い奴ほどよく太る(よく眠る)。という現象が確かに存在するようだ。実はそうした現象の起きるもう一つの法則がある。

“自分を殺し”、自分が我慢をして、自分を粗末にしている人は福運を失い、人からも粗末にされるという法則。どうしてそうなるのか、それは「妙法の当体」を殺しているからです。同じことをやるにしても、自分自身が喜びながら自分の命を輝かせながらやれば福運となり、人からも大事にされるというわけです。(義務的にやらされるのではなく)

ところが、“折伏すれば開ける、新聞啓蒙すれば幸せになる、財務に頑張れば幸福になる”といった指導をよく耳にしますが、こういうのは餓鬼道といって見返りを求める姿勢につながり、開けなかったら恨みになる。

私どもの目指す菩薩道とは根本的に違う。ギブアンドテイクではなく、自己犠牲精神じゃないのです。喜んでやるのです。「村の文化」に毒された「念仏文化」が怖いんです。

偉大な御本尊様におすがりして、その功徳と智慧を分けて頂こうと捉えることが「念仏文化」の概念にあたるのです。心すべき事です。

3、“悪人成仏”、“女人成仏”を説く法華経の意図するものは何なのか。

最悪の自分を卑下せずに自らを慈悲の心で大きく包み込める人は、本当に苦しんでいる人を我が事のように温かい心で包むことが出来、又他人をも尊敬できていけるのです。ところが、心の奥底では“弱い人だなあ、自分に負けてだらしない人だな”と見た場合、自分を見る目が人を見る目になるのです。何を根本として尊敬するのか、それは自身の生命であり、何が起ころうとも尊敬から出発することが大事であり、これが御本尊を持つということです。“自分の生命を讃嘆しながら生きていく事”であると、池田先生の指導です。

自己実現(人間革命)にエネルギーが向かないで、理想的自画像を実現させることにエネルギーが使われるようになると、必然的に他人と比べて自分のほうが優れていると見る心が生じてくる。これが傲慢、慢心の驕りという魔物であり、その生命の奥底では劣等感と自己不信が渦巻いているのである。この様な人の共通点は自分にできる事、適することをしていれば自ずと未来は開けてくるのに自分の能力を超えた出来ないことばかりを人にやらせようとしている。

あたかもそれが自身の権利のごとくに振る舞うようになる。「出来る」という事と実際に「実行した」という事との間には本質的な違いがあることを学習したい。

又、“やる”という事と“結果を出す”という事は別問題である。

“結果を出す”(信心根本) ~ 拝んで動いている事が信心根本だと思っている。

「運営上手の指導べた」 ~ 指導とは決意させること。

私は幸福になろうとしました。それなりの努力もしました。しかしなれなかった。

なれなかったのは、周囲の人が悪いからとそれに相応した事もしないで、愚痴を言っている人のなんと多いことか。

“自己栄光化”の中に含まれる性質として「神経症的要求」という厄介な代物がある。

これは常日頃できることをしないで出来ないことをしようとして、それがうまくいかないと言って嘆いてばかりいる。そこには誰かが解決してくれるものと心の底で期待しているのである。

4、“許せない心”の辿りつくところ。

「正義に訴えて許せない」という正義の強調は「復讐心」のカモフラージュである。

「見返してやる」という気持ちが強い。そして「執念深い」。

親戚だから、兄弟だから、同志だから助けてくれて当たり前だろうという自分の要求を正当化するために相手を執拗に責める場合がある。

以上 2016/02/25

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