御義口伝(下)如来寿量品第十六

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「寿量品二十七箇の大事」

第一、南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

 寿量品の文上と文底、内証の寿量品について。

 寿量品得意抄にいわく

 「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月なく、国に大王なく、山海に玉なく、人にたま

 しゐなからんが如し、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし。

 はじめ華厳経より終わり涅槃経にいたる一代五十年の説法は、寿量品の画竜点睛を欠くならば

 すべていたずらごと」

 *「行布を存する」

 権大乗以下の経典の説明法であり、十界に差別を設けた低い生命観から生じたものである。

 法華経方便品に至り、十界互具が明かされ、(百界千如一念三千の哲理)諸法実相、森羅万

 象ことごとく、妙法の当体であることを示した。しかし、法華経迹門の段階では、いまだ不完全

 であった。生命の理論的、哲学的考察の域を出なかったからである。

 およそ仏法は、一切衆生を現実に幸福にしていくために説かれたものであり、理論のためや、学

 問のためでもない。事実の上に人々を成仏せしめていく力強い教えでなければ何のための仏

 法であろうか。

 開目抄上にいわく

 迹門方便品はまことの一念三千も顕れず、二乗作仏も定まらず、~水中の月を見る如く有名

 無実であり根無し草のごとし。

 観心本尊抄にいわく「但、仏界計り、現じ難し」仏界の顕現こそ仏法の究極であり、難問題である。

 始成正覚 ~ 五百塵点劫(久遠実成) ~ 広開近顕遠(発迹顕本)

 観心本尊抄(P、11)

 問うて曰く、百界千如と一念三千と差別如何。答えて曰く、百界千如は有情界に限り、一念三

 千は情、非情に亘る。

 「我実成仏己来無量無辺」~本果妙の文

 「我本行菩薩道」~本因妙の文

 「娑婆世界説法教化」~本国土妙

 文上の論法~三妙合論

 開目抄上(p、16)一念三千の法門は但法華経の本門の寿量品の文の底にしずめたり。

 日寛上人の三重秘伝抄には「一念三千の法門は一代聖教の中には但法華経、法華経の中

 には但本門寿量品、本門寿量品の中には、但文底秘沈と云々」

 寿量品得意抄(P、1212)にいわく

 「所詮寿量品の肝心、南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御座候へ」

 総じては、法華経二十八品別しては寿量品の一品はすべて日蓮大聖人の仏法が根底となり、

 初めて生きてくる事を知らなくてはならない。

 *一念三千に三重あり。

 一に常用の一念三千、二には、別時の一念三千、三には臨終の一念三千臨終のとき、専心に  

 応に南無妙法蓮華経と唱えるべし。

 真実の無始無終の仏は、久遠元初とは、空間に約せば、大宇宙それ自体であり、その実体は

 一切法の根源でありかつあらゆるものを変化させ流転せしめて行く本源力たる南無妙法蓮華経。

 本地無作の三身について、両重の総別あり。一には、総じては一切衆生、別しては日蓮が末弟、

 二には、総じては日蓮の末弟、別しては日蓮大聖人。

 曽谷殿御返事(成仏応用抄P、1055)にいわく

 「総別の二義少しも相そむけば、成仏思いもよらず、輪廻生死のもといたらん」

 信心に約すれば、御本尊を唯一無二と信じる人が本地無作の三身なのである。これは総じての

 立場であり、別していえば、日蓮大聖人のみ無作の三身の当体であらせられる。大御本尊それ

 自体がまったく無作三身如来たる日蓮大聖人の全生命であるからにほかならない。

 時代の如何を問わず、民族の如何を問わず、誰人であれこの大御本尊を信ずるならば、我が身 

 妙法の当体と顕れるのである。

 当体義抄(P、510~519)

 「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、正直

 方便を捨て、但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱える人は、煩悩、業、苦の三道、法身、般若、 解脱の三徳と転じて、三観、三諦、即一心に顕れその人の所住の処は常寂光土なり、能居、身

 土、色心、倶体、倶用、無作三身の本門寿両の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の

 事なり。問う劫初より己来何人が当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫のその当初

 此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え、能証所証の本理を顕し給えり。

 惣じて、伏惑を以って寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘を此の品の極理と心うべきなり」

 (理即の凡夫が究競即の仏になるには、惑を伏して、次第に昇進していく以外になかった。)

 御義口伝(P753)「此の無作の三身をば一字を以って得たり。所謂信の一字なり。」

第二、如来秘密神通之力の事(無作三身の依文)

 「即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力 ~ 我等当に仏の語を信受したてまつるべし。」

 唱法華題目抄(P 、16)「利根と通力とにはよるべからず。」

 「頭脳の働き、五体の働き、心の働き全て神通のの力なのである。灼熱の太陽、地球の公転と

 自転、天体の生住異滅の種々相、星辰の瞬き。仏の通力とは、最高に人間性を発揚していくこと

 で、最も人間らしい当たり前の人間でありながらそのままの姿で、真実の幸福境に行ききること。

 「宝塔の中の二仏並座の儀式」とは、事の一念三千の大御本尊の事である。

 「されば、釈迦、多宝の二仏というも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」

 観心本尊抄にいわく

 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然

 に彼の因果の功徳を譲り与え給う」

 生死一大事血脈抄(P、1338)

 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。」(無疑曰信)

 有名の二字に酔いしれた人は、その酔いが醒めた後は悲哀の人生であろう。権力に慢ずる人は

 権力が取り去られた跡、そこには弱い1個の人間を見るのみである。金力に頼り、それで全て

 を解決しようとする人は、金力が崩壊し去った後は、餓鬼道の人生であろう。栄枯盛衰は人の

 世の常である。信心に生きる人は、その当体は無作の三身であり、何ものにも負けず、何者に

 も支配されず、確固不動の堂々たる生涯を生きる。

第三、我実成仏己来無量無辺等の事

 文上の釈尊の境地を一般論の上から説かれ、内証の寿量品の意を(末法においては、釈迦

 仏法には力はなく、ただ文底下種の大仏法こそ、一切衆生の皆成仏道の法なり。

 「諸法実相を釈して、実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」

 仏法は観念の宗教ではない。現実を嫌悪し逃避する力なき哲理でもない。この宇宙、社会、

 人生を透徹した仏眼で照覧し、そこから真の幸福への方途を説き明かした大哲理、大宗教なり。

*ビクトルユゴー(仏の文豪)の言葉

 「大海より壮大なものは大空である。大空よりもなお壮大なものは人の心である。」

 ところが現実は、環境に縛られ、宿命に泣き、偏狭な卑屈な心となっている人が大部分である。

 主体性を失い、浮き草のように生きる人がきわめて多い。誠に嘆かわしい限りである。この心を

 開発して行く宗教とは、日蓮仏法以外にない。

*戸田先生の指導(仏の慈悲について)

 慈悲というものは修行ではない。行動の中に、心の働きの中に無意識のうちに自然に発現す

 べきものであって、仏の振る舞いは、生きてること自体が慈悲の状態であって、そのように生き

 る以外に道を知らないものである。

第四、如来如実見三界之相無有生死の事

 本有常住の生命哲理

 御義口伝にいわく、「如来とは三界の衆生なり、此の衆生を寿量品の眼開いてみれば、、十界

 本有と実の如く知見せり。」

 我が生命が本有であるとともに、十界も本有である。地獄界から仏界に至るまで、誰人といえども

 本来それを備えている事を知らねばならない。常に縁にふれて顕れてくる。元々あるがゆえに

 現れてくるのであり、無から有を生ずるわけがない。

第五、若仏久住於世薄徳之人不種善根貧窮下賎貧惹五欲入於億相妄見網中事

 (創価学会出現の意義)

 観心本尊抄にいわく、今の「遣使還告」は地涌なり。是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗

 用教の南無妙法蓮華経なり。~善根とは題目なり、不種とは未だ持たざる者なり。

 三大秘法稟承事(三大秘法抄)P、1022

 「末法に入りて今日蓮が唱うる所の題目は、前代に異なり自行化他に旦りて南無妙法蓮華経なり

 一生成仏抄(P、383)

 「仏の名を唱え、経巻を読み華をちらし香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根な

 りと信心を取るべきなり。」

第六、飲他毒薬薬発悶乱宛転迂地の事

 正しい宗教と誤れる宗教とは、良薬と毒薬の違いがある。仏界の山頂へ登る道と、地獄の渓谷

 へ下る道の違いである。地獄について。 ~ 八大地獄、八寒地獄

 観心本尊抄

 無間大城の大火炎等、此の業は皆我が一念の十界か、己身の三千か。

 上野殿後家尼御返事(地獄即寂光御書)P、1504)

 「夫れ浄土というも、地獄というも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり。云々と」

 原爆投下による広島、長崎や、シベリア抑留時の地獄の様相。これらの現実に目を向けず 

 ただ空想しか許されぬ死後の世界か、あるいは別次元の世界にのみ地獄を求める一般の仏教

 界やキリスト教など、まさに観念論という以外にない。仏の説く地獄とは、お伽話や観念論では

 断じてない。生命、生活に直結した現実論であることを知るべきである。

 信心なくば、どれほだ表面的に華麗を装うとも生命の本質は常に地獄に処するのである。

 どれほど、権力、金力、名声をほしいままにしたとしても、信心なきその人の生命は常に地獄で

 あり、今光っているのは、ただ落日の余光であり、やがてその本質に従って、地獄へ地獄へと向 

 かう哀れな人々といわざるを得ない。

第七、或失本心或不失者の事

 本心とは、所詮、南無妙法蓮華経である。妙法こそ我が生命の至宝である。

第八、和合与令服の事

 一切衆生を我子と思われ、大良薬(南無妙法蓮華経)を服しめようとなさる慈悲のお心を感ず

 るのみならず、空、仮、中の三諦、草木成仏等の生命哲理が網羅されている。受持即観心の

 原理が説かれ、強き確信に立って信行に励む。

 「我が心性」性分とか心とか精神作用は空諦である。空とは有とも無とも固定する事のできない、

 有無の二道以外の概念である。

 *戸田先生の指導(怒るという性分について)

 怒るという性分は、有無を決する事はできないであろう。縁に触れて厳然と姿、形、行動言語等

 にあらわれ、他の状態と識別する事ができる。このように、心の働きや、性分等を空諦というので

 ある。そして「我が此の身体」生命の本質、本体を中諦、中道というのである。

 例えば、Aという三歳の幼児がやがて成長し変化して二十歳になった成人も同一人物であり、

 一貫した本質を持っている、これが中諦、中道である。

 「我が身の色、形に顕れたる相」すなわち、肉体、姿、形は仮諦なり。仮に和合した姿としかいい

 ようがないから仮諦である。中諦、中道といえども、仮諦、空諦の中にしかなく、仮諦、空諦とい

 えども一貫した本質、つまり中諦に基ずいているのである。この三諦は人間のみに当てはまる

 ものではなく、万法に通ずる哲理である。正にこの哲理こそ東洋哲学の根幹をなすものであり、

 現代科学をもリードしゆく力強い理論体系である。

 という概念一つ取り上げても、実に深き内容を持ち、西洋哲学における有と無の概念以上

 進んでいない哲理なんかは足元にも及ぶものではない。

 なにも空のみではない。という考え方も偉大なる卓見である。況や仏法の中諦、妙法の中道

 においては、他の哲学の想像をも絶するところである。今日に至り、政治、経済、全ての哲学否、

 全文明が中道主義への方向に向かいつつあることは特筆すべきである。現代における支配的

 思想は、唯心、唯物、実存主義に代表されるが、これらの主義、主張はこれまでに決して人類を

 幸福にする事を出来ずにきた。むしろ対立抗争に終始し、人間性を抑圧し、傷つけて来たとい

 えないだろうか。古来、仏道修行と称して民衆の無知に付け込んで、きわめて非人間的な、非

 常識な行動を強いる宗派が存在してきたが、これらは法体に力なき証拠であり、釈迦仏法の亜

 流であり、時代遅れも甚だしい、三悪道、四悪趣の修行の極みなり。

 草木成仏口決(P、1339)

 「此の色香は草木成仏なり、是れ即ち蓮華の成仏なり、色香と蓮華とは言はかわれども草木

 成仏の事なり。」口決にいわく、「草にも木にも成る仏なり」

 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習い損ないの学者ゆめにもしら

 ざる法門なり~」

 経王殿御返事

 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給え。仏の御意は法華経なり。

 日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」

 したがって、大御本尊をたんに紙に字が書いてある程度に、軽薄に考えているとすれば、大

 謗法である。そこに大聖人がおいでになる思いで強き信心に立ち真剣に唱題に励むべきです。

第九、毒気深入失本心故の事

 折伏しても、正法を信受できないその本質論を説かれている。

 折伏こそ、相手の心に動執生疑をもたらすのである。この動執生疑は断疑生信の前提であり、

 事実は奔流のごとく、妙法へ妙法へと心が動いていることは、絶対であると確信するものである。

 折伏こそ、元品の無明を断ち切る利剣である。

第十、是好良薬今留在此汝可取服勿憂不作の事 

 大聖人仏法は一部の人や、国や、特別な人のためのものではない。あらゆる国のあらゆる階

 層の人々に対し、大良薬を授けられた。

 薬王品第二十三(開結606)

 「此の経は、則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり」

 高橋入道殿御返事(P、1458)

 、、、小乗経、大乗経並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂

 病は重し、薬はあさし、其のとき上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に

 さづくべし。

 *「ある医学者の一文」~別紙参照

第十一、自我得仏来

 大聖人観心の読み方は、「我仏来は自得なり」と読む。

 この三身如来(法、報、応)は自ら得たるものであり、決して教えられたり、与えられたものでも、

 作られたものでもなく、無始無終にして無作三身如来の当体なり。

 「自解仏乗」 「無師智」 「無上宝聚不求自得」

 唱題に励むとき、我が身が仏の当体であると生命それ自体に覚知する事(信心)

第十二、為度衆生故方便現涅槃の事

 涅槃とは死であり、死は方便である。仏法を死のための準備の宗教であるかのごとく説く人が

 いるが、それは真実ではない。臨終こそ今世の総決算であり、その状態が死後も連続し、再び

 誕生するときもその連続による。依って生のための哲理であって死のための哲理ではない。

第十三、常住此説法の事

 一生成仏抄(P、384)

 衆生の心けがるれば、土もけがれ、心清ければ土も清し、浄土と云い穢土と云うも土に二つの

 隔てなし、只我等が心の善悪によると見えたり。

第十四、時我及衆僧倶出霊鷲山の事

 (十界宛然の曼荼羅)

 「大聖人御図顕の大御本尊の相貌は、十界三千の諸法が南無妙法蓮華経の一法に具足した

 姿である。中央に南無妙法蓮華経とおしたためであり、その左右の釈迦、多宝の二仏は御本仏

 の脇士であり、仏界を顕している。さらにその両脇の上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩は

 菩薩界を示し、舎利弗、迦葉等は縁覚界、声聞界を代表し、また大梵天王、帝釈天王、大日天

 第六天の魔王等は天界を、転輪聖王等は人界を、阿修羅王等は修羅界を、竜女等は畜生界を

 鬼子母神、十羅刹女等は餓鬼界提婆達多等は地獄界を表している。

 南無妙法蓮華経を中心にその左右に認められた十界は大聖人己心の十界を意味し、妙法の

 光明に照らされた本有の生命活動である。」

 *戸田先生の指導(宝塔品第十一の儀式について)

 「迹門の流通分たる見宝塔品において、多宝塔が虚空に立ち、釈迦、多宝の二仏が宝塔の中

 に並座し、十方分身の諸仏、迹化他方の大菩薩、二乗、人天等がこれらに連なるいわゆる虚空

 会の儀式が説かれている。これは甚だ非科学的のように思われるが如何。しかし仏法の奥底

 から見るならば、極めて自然の儀式である。もしこれを疑うなら、序品の時に既に大不思議がある。

 数十万の菩薩、声聞、十界の衆生が悉く集まって、釈迦仏の説法を聞くようになってるがこんな

 事が可能かどうか。スピーカーも為しにそんな大きな声が出るわけが無いし、ましてや八年間も

 それが続けられるわけがない。即ちこれは釈迦己心の衆生であり、己心の十界であるから、何十

 万集まろうと不思議ではない。されば、宝塔品の儀式も観心の上に展開された儀式なのである。

 霊鷲山の儀式即虚空会の儀式は悉く大御本尊におさまり、一法も余すところがない。霊山一

 会厳然未散とは大御本尊に向かって唱題するときの姿であり~我生命それ自体が虚空会なり。

第十五、衆生見劫尽、而衆見焼尽の事

 (三世間について)

 世間の意味は、差別と約す。但し、人間生活または社会における不合理に作られた差別を言う

 のでは決してない。人間一人一人のその個性が最高に生かされる処に真の自由があり、平等が

 あるとする。(桜は桜、梅は梅、桜梅桃梨の原理)

 1、五陰世間 ~ 生命を(色、受、想、行、識)の五つに分析

 2、衆生世間 ~ 五陰が「仮に和合」した生命と捉える

 3、国土世間 ~ 十界の衆生が住む処

 「二乗の住むとされる方便土なるものは、現代的に解せば、さしずめ芸術家や学者のアトリエか

 研究室にあたるように思われる。菩薩の実報土に至っては、世の指導者階級の集会などが相

 当される。だがこれらの説明には、あたかも別世界であるかの如く説かれており、仏の住む

 光土たるや、娑婆世界からは全くかけ離れた彼方の世界であるとされ、これでは現実的でない。

 本門寿量品に至り娑婆即寂光土であると説かれ仏国土とあらわれたのである。」

 非情の草木、国土にも仏性がある事を示す。「我此土安穏」

第十六、我亦為世父の事

 (三徳具備の仏)~主の徳(我此土安穏)、師の徳(常説法教化)、親の徳(我亦為世父)

 世界平和を目指し、この地上より悲惨の二字を無くすまで、勇敢に戦う事なり。

第十七、放逸着五欲堕於悪道中の事

 人間は放っておけば、組織を離れ御本尊からも離れ、五欲に着しやがて自分を苦しめて行く。

 そこに指導が大切なゆえんがある。常に個人個人が発心することである。形式に流されている

 自己に気づく事が大事である。慢心があるとそれが見えなくなるものだ。

 「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

第十八、行道不行道の事

 (行道は四聖、不行道は六道)

 「要領よく小才を利かしうまく立ち回った人は、その分だけ必ず後で損をする。真面目に戦う人は、

 必ず福運の花を開いていく。そうでなければどうして平等大慧の法といえよう。目に見えざる世界

 を確信して行くのが信心。目に見える世界を追い功をあせり形式に流れる人は必ず行き詰まる。

 奥底の一念は見えない。冥の照覧を確信したい。」

 開目抄下

 「詮ずるところは天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん」

第十九、毎自作是念の事

 仏の毎自作是念は慈悲の念であり、決して道徳的な修行で得られるものではない。意識して

 どんなに慈悲の念を起こそうとしても起こせるものではない。無意識の行動の中に心の働きの

 中に自然に発現するものである。したがって、無作本有の作であるとおおせである。

 いま、自己の毎自作是念は何であるかを深く反省すべきである。形は広宣流布のために戦って

 いる姿であっても、奥底の一念は名聞名利の毎自作是念ではないかどうか。

第二十、得入無上道等の事

 南無妙法蓮華経こそ最高の幸福境涯を会得できるのである。これを無作三身と説かれ、これを

 わが一身に成就していくためには、信心以外にないのである。最高の生命力、最高の智慧、最

 高の福運、これを顕現し確立するための信心である。無作の三身当体を確立することが大事。

第二十一、自我  の事

 第十一「自我得仏来の事」と第二十二「自我  始終の事」(速成就仏身)と一連の御文

第二十二、自我  始終の事~自身

 「自受用身」とは尊形を出でたる仏~凡夫即極の仏。出尊形仏とは無作の三身という事なり。

 生命は他によって作られたものではなく、自身の内に因果の理法を内包し常住している。

 神によって作られたとか、今世において初めて誕生したとか言うものでは毛頭ない。したがって

 自分自身の責任で確立する以外にない。だが現実には、煩悩、業、苦に縛られ左右され、支配

 されている。又、環境に押しつぶされ小さな弱い存在である。

 巷間、自我の確立、主体性、自由、尊厳性等が叫ばれているが、言葉のみ有りて実なく迹門の

 領域なり、真の実体は仏法にある。人間革命をもってはじめて、真の民主主義が実現される。

第二十三、久遠の事

 「働かず、繕わず、本のままのことを久遠という」~無作三身の当体蓮華仏

 *戸田先生の指導

 我が身が地、水、火、風、空、すなわち大宇宙のそれ自体の生命であると悟りになった事です。

 ですから大聖人様の生命も我々の生命というものも無始無終ということなのです。これを久遠元

 初といいます。大宇宙ですから初めも無ければ終わりもないのです。もはやある一定の時を指す

 のではなく、三世常住に生死を繰り返し無始無終に続き行く生命の究極、本源をいうのです。

 幸福は他から与えてくれるものではなく、自身の生命の上に築いて行くものである。

 歴劫修行や、観念観法で働かして築くものではない。大御本尊と境智冥合するとき、我等の

 「行住座臥」の振る舞いすべて大宇宙のリズムと合致し障り無く悠々たる振る舞いをしていける事

 が無作三身の確立であり、「働かず」になり、また「繕わず」とは虚栄ではなく、ありのままの人間

 として、個性を発揮し価値創造しゆく人生である。また「本のまま」とは題目を唱える姿をいい、信

 心に生き、妙法に生き、広宣流布に生き切る人こそ、人間完成の究極とは云えないだろうか。

第二十四、此の寿量品の所化の国土と修行との事

 日本より流布し、東より西に世界へと広宣流布されるという事。

 無疑曰信の信心とは、大御本尊を絶対と信じ奉る事であるが、大聖人の仏法はどこまでいって

 も矛盾がないと云う事でもある。

第二十五、建立御本尊等の事

 「如来秘密神通之力」が依文

 *日蓮大聖人の悟り

   霊鷲山の付属の会座(三大秘法の付属)

   神力品の付属の会座

   末法に上行菩薩の出現を予言した経文

   末法世相の予言等

 上行とは我をあらわし三世常住に続き行く生命の本質に、久遠元初自受用身如来の生命を受

 け継がれたと拝すべきか。この御本仏が末法に日蓮大聖人のお姿として顕れ給うたか。

 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。」

第二十六、寿量品の対告衆の事

 弥勒菩薩(一切衆生)

 「彼が為に悪を除くは、即ち是れ、彼が親なり」 ~ 折伏行

 「世間の態を見るに、あまりにも慈悲の欠如が甚だしい。弱肉強食の畜生の姿を見るに等しい。

 人々の交際の姿を見ても、その多くは昨日の友は今日の敵というような利害の結合であり、通り

 一遍の好悪の感情による結合であると言っても過言ではなかろうか。馴れ合いの妥協で事を運

 びその裏では互いに相手の腹の中を探っているのではあるまいか。

 だが折伏行は大聖人の民衆救済の大精神であり、創価学会の生命であり骨髄である。」

第二十七、無作三身の事

 御義口伝(P、722)

 「十界悉く合掌の二字に納まって、森羅三千の諸法は合掌に非ざる事なきなり。」

 「合掌の二字に法界を尽くしたるなり。」

以上 要旨記述 2012/11/22

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