御義口伝 勧持品第十三 安楽行品第十四 従地湧出品第十五

勧持品十三箇の大事

第一 勧持の事

自行化他に亘るなり。大聖人こそ末法の御本仏なりと証明付ける明鏡。

・聖人御難事(P、1189)に「竜樹、天親、天台、伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずんば仏は大妄語の人、多宝、十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間、閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり」と

・顕仏未来記(P、508)に「答えて曰く、仏記に準じて之を勘うるに、既に後五百歳の初めに相当れり、仏法必ず東土の日本より出づべきなり」と、又

・報恩抄に「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながれるべし」

第二 不借身命の事(日興遣誡置文P、1618)

 未だ広宣流布せざる間は身命を捨て、随力強通を致すべき事」

・兄弟抄(P、1087)に「此の法門を申すには、必ず魔出来すべし、魔競わずは正法と知るべからず、~行解既に勧めぬれば三障四魔、紛然として競い起こる乃至、随う可らず、畏る可らず、之に随えば将に人をして悪道に向かわしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云々、此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり、謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」

・聖人御難事に「設えば灸治のごとし。当時はいたけれども、後の薬なれば、いたくていたからず」

第三 心不実故の事

 末法の人の性として、心が不実であるとする。正しいものを正しいと見ることが出来ない、偏狭である。学会に対する一部の偏見等。

第四 敬順仏意の事

 敬順とは信心である。

第五 作師子吼の事

 ・経王殿御返事に「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」一人起つ信心

第六 如法修行の事

 思想実践の事

第七 有諸無智人の事

 俗衆増上慢の事。信心のことになると、決まって反対してくる。

 猛烈な反対者が、後に入信するのも不思議でもあるこの仏法。

第八 悪世中比丘の事

 道門増上慢の事。邪宗の僧等が正法を誹謗してくる事。

第九 或有阿練若の事

 僭聖増上慢の事。撰時抄に、「正法の強敵と申すは、悪王、悪臣よりも、外道、魔王よりも、破戒の僧侶よりも、持戒有聖の大僧の中に大謗法の人あるべし」

第十 自作此経典の事

 僭聖増上慢が、法華経の行者を誹謗中傷する姿。(邪宗身延派等)

第十一 為其所軽言汝等皆是仏の事

 折伏にあたり、そんなにすごい宗教なら、すぐに証拠を示せとかいって道理にも合わぬ脅しや嫌がらせを言って嘲られること。

第十二 悪鬼入其身

 誤った宗教、思想は知らず知らずのうちに生命を蝕み、生命力を奪っていく。

第十三 但借無上道の事

戸田先生の指導「信心強盛なる者は、日蓮大聖人の御血が我が生命に湧いてくるのだ。清浄な逞しき人を救おうとする慈悲が、そして人生を生き切っていける力が、此れこそ血脈を受けてるという事です」

<安楽行品第十四> (安楽行品五箇の大事)

 「難来るを以て、安楽と意得べきなり」

第一 一切法空の事(有るとか無いとかで割り切れない)

 「怒るという生命状態をもし有ると言おうにも、どこにもその実体はない。

 掴むことも出来ない。無いと言おうとしても、怒るという生命は厳然として存在する。このように有って無きが如く、無くて有るがごとき有無で論ずる事の出来ない状態、実体を「ともいい」ともいうのである。

 死後の生命は空の状態である。睡眼の状態を考えてみるに、眠っている場合には心がなくて、起きている場合にはある。」

第三 有所難門不以小乗法答等の事

 謗法を破折することは、権教等の低い教えで会通を加えてはならない。

第四 無有怖畏加刀杖等の事

 迹化の菩薩には刀杖の難はない、天台伝教は迹化の菩薩で難に遭っていない。

 ・本因妙抄(P875)に、天台と日蓮大聖人の立場を比較相対して「彼は安楽普賢の説相に依り、此れは、勧持不軽の行相を用ゆ」と。正、像年間は摂受の修行であり、末法は折伏でなければならない。

第五 有人来欲難門者諸天昼夜等の事

 諸天善神の加護は絶対であるとの文証である。

 ・法華初心成仏抄(P、557)に「故に一度、妙法蓮華経と唱うれば一切の仏、一切の法、一切の菩薩一切の声聞、一切の梵天帝釈、閻魔,法王、日月、衆星、天神、地神、乃至、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天、一切衆生の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺なり~

我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて顕れ給う処を仏とは云うなり。

たとえば、かごの中の鳥鳴けば空飛ぶ鳥のよばれて集まるが如し。空飛ぶ鳥の集まれば、かごの中の鳥も出でんとするが如し、口に妙法を呼び奉れば、我が身の仏性はよばれて必ず顕れ給う、仏菩薩の仏性は呼ばれて悦び給ふ」

<従地湧出品第十五> (湧出品一箇の大事)

第一 唱導之師の事

本化の菩薩の事。四菩薩(上行、無辺行、浄行、安立行)四導師があることは

四徳(常楽我浄)を表わしている。「南無妙法蓮華経」が根本である。

迹化の菩薩は、「法華経二十八品」を根本とするのに対する違い。

戸田先生の指導

我々は「本化の菩薩」なり。いかに偉大な指導者であっても、御本尊なきゆえ、根本的な世の中の革命や人民救済は出来ないでいる、世の中の政治家等の指導者は皆、迹化の菩薩なり。

我々は信心一途である。ゆえに強いのである。唯大御本尊を受持することを根本とし、各人が一生成仏を目指して仏道修行する事のみが目的である。

それ以外の事は全て自由である。学会はそれぞれ主体性を持ち、広宣流布を成し遂げようという目的観に立った異体同心の団結である。

「青年訓」に青年は、親をも愛さぬ者が多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて仏の慈悲の境地を会得するための人間革命の闘いに挑むのである。

この本体である南無妙法蓮華経を広めていくのが本化である地涌の菩薩の我々なのである。釈尊は「二十八品」を説き、天台は「摩訶止観」を説き、またあらゆる人師、論師等もこの本体の用を出だして広めたに過ぎない。

「此の本法」を受持するのは「信の一字」であることを明記されたい。

以上 要旨記述 2016/03/06

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