「証の重」としての当体義抄

秋谷栄之助

 第26世日寛上人、当体義抄文段  ~  ”教、行、証の各重”

 「教の重」  ~  開目抄

 ”内外相対”  ”大小相対”

 「此の仏陀は三十成道より八十御入滅に至るまで五十が間一代の聖教を説き給えり、一字一句

 皆真実なり~されば一代五十余年の説教は、外典外道に対すれば大乗なり、大人の実語なる

 べし ~ (P、188)」

 「外典外道の四聖、三仙其の名は聖なりといえども実は三惑未断の凡夫、其の名は賢なりといえ

 ども実に因果を弁えざる嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや」

 ”権実相対”

 「但し仏教に入りて~法華経計り、教主釈尊の正言なり、三世、十方の諸仏の真言なり、大覚

 世尊は四十余年の年限を指して、其の内の恒河の諸経を未顕真実、八年の法華は、要当説

 真実と定め給しかば」

 ・無量義経 ~ 種々の法を説くこと方便力を以ってす。四十余年未だ真実を顕さず(P、88)

 ・真言宗の依経~大日三部経。  浄土宗の依経~阿弥陀経。(共に方等部の経なり)

 ”本迹相対”  ”種脱相対”

   迹門~二乗作仏。  本門~久遠実成

 一念三千の法門は、一代聖教の中には、但法華経(権実相対)、法華経の中には但本門

 寿量品(本迹相対)本門寿量品の中には但、文底に秘沈されている。(種脱相対)

 ・久遠下種名字の妙法

 末法の荒凡夫は、仏種を心田に初めて下ろすことによる本因妙の仏法でしか成仏できない。

 「行の重」  ~ 観心本尊抄

 御本尊受持が即、に当たる。

 六度(六波羅密)~布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧

 舎利弗がバラモンの(第六天の魔王)乞食に眼を乞う、足下に踏み砕かれる。

 功徳聚、不求自得(文段集P、487)労もなく、行功もなく、但信心、口唱を以って自然にこれを

 受得す。一念三千を識らざる者には仏、大慈悲を起こし五字の内に此の珠をつつみ、末代幼

 稚の頚にかけさしめ給う。(P、254)

 *「証の重」  ~ 当体義抄

 自身が妙法蓮華経の当体と悟る~御本尊受持により当体蓮華を証得できる。

 道理、証文よりも現証にはすぎず。結局末法においては悟りといっても信以外にはないのである。

 凡身のままで妙法蓮華経の当体であると悟ることが成仏なのです。

 「所詮妙法蓮華経の当体とは、法華を信ずる日蓮が檀那等の父母所生の肉身是なり、正直に

 方便を捨て、但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は、煩悩、業、苦の三道、法身、般若、

 解脱の三徳と転じて三観、三諦即一心に顕れ其の人の所住の処は常寂光土なり~本門寿量の

 当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中のことなり(P、512)」

 我等この本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人

 なり~故に唯、仏力、法力を仰ぎ応に信力、行力を励むべし。一生空しく過ごして万劫悔ゆる事

 なかれ。(P、548)

 当世の体を見るに、大阿鼻地獄の当体を証得する人之多しといえども、仏の蓮華を証得せるの

 人之なし。

以上 要旨記述 2012/10/02

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