人間勝利の新文化実現のための指南書
(大意)
1、宗教の極理論
①種脱相対を明かす ~ 在世は脱益、滅後は下種
②三大秘法を明かす ~ 戒、定、慧の三学、六大秘法、八万法蔵
③人本尊、法本尊、 人法一箇の御本尊
人本尊とは、無作三身如来(一切衆生)。 法本尊とは、本門戒壇の大御本尊。
法華経の行者の一身の当体なり。
④久遠元初を明かす ~ 本有常住の化導、自受用身
”久遠とは、はたらかず、つくろわず、もとのままという義なり”
無作の三身なれば、初めて成せず、是れはたらかざるなり、三十二相八十種好を具足せず、
是れつくろわざるなり、本有常住の仏なれば、本のままなり、是れを久遠というなり、久遠とは、
南無妙法蓮華経なり、名字凡夫位の仏。
2、生命の本質論
①色心不二を明かす ~ 生命哲学
②三諦、三身を明かす
③十界互具、 一念三千を明かす
3、永遠の幸福論
①世界広布を明かす
②永遠の幸福を明かす~即身成仏
<本 講>
南無妙法蓮華経 ~ 二百三十一箇条
南無とは帰命なり、妙とは法性なり、法とは無明なり、(無明法性一体なりを妙法) 蓮華とは因果
の二法、経とは言語音声 ~ ”声仏事を為す”
理の一念三千(十界互具、百界千如)、 事の一念三千(仏界の涌現)
随縁真如の智、不変真如の理(法理)を説く法華経(御本尊)を信ずる事によって、我が生命の
上に、仏界を涌現することである。
”色心不二なるを一極と云うなり”
生命の本質(精神と肉体とが一体) ~ 生命哲学
法華経は当体蓮華と譬喩蓮華の二義
釈尊の仏法は家の設計図、(譬喩蓮華) ~ 南無妙法蓮華経を説明する。
大聖人の仏法は家そのもの(当体蓮華)
随縁不変一念寂照 ~ ”因果倶時、不思議の一法”
朝起きて食事をしたり、仕事に出かけたりして変化しているのが生活の実相であり生命活動な
のである。この随縁、不変が共に存在しているのが生命の実相であり本質であり、妙法の実体
なり。
序品七箇の大事
第一、 如是我聞の事
名字即(六即位)理即、名字即、観行即、相似即、分真即、究境即
第二、 阿若矯陳如の事
煩悩即菩提、生死即涅槃
第三、 阿 世王の事
「未生怨」~他人を怨む性格、性質は誰人にもある。互いに、いがみ合い嫉妬と憎悪に満ちた現
代世相にあって、国と国との不信、相克。己の利己心を満たそうとする醜い根性が見え隠れする。
この根性は、自分で自分をどうしょうもなくしてしまう。力なき哲学、思想により偏った主義主張か
ら対立感情を生み出してくるので厄介である。人間生命に深く根ずく傾向性でありこれを「阿
世王」と名ずける。人間は感情の動物とも云われていてこれらの感情に支配されて
生きる事は不幸である。民衆を想い戦争を憎み、平和を願い、敢然と戦う姿は、あたかも謗法
を憎み折伏する学会員の姿は真の阿 世王なり。真の宗教哲学による主義主張を超えた仏
法対話による共通の立場を見出す作業は、やがて人類発展の原因になる事を信じてやまない。
第四、 仏所護念の事
先祖(死んだ人)を祀る邪義。仏を死人の事と捉える教え。霊友会、仏所護念会等の邪儀。
第五、下至阿鼻地獄の事
この文は十界の衆生が、皆悉く成仏するという記文なり。提婆達多の成文の明文なり。
今、日蓮大聖人門下が大御本尊に結縁して亡くなった人を、法華経方便品第二、如来寿量品
第十六を読み南無妙法蓮華経と唱え追善回向する時、題目の光が無間地獄に至って即身成
仏できるという原理である。又、法華不信の人は無間地獄に落ちて苦しむのである。しかし追善
供養してあげるならば、抜苦与楽できるのである。宝塔品の次に提婆が成仏を説く事は二箇の
諌暁の文なり。開目抄にいわく「宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆
達多は一 提なり、天王如来と記せらる。涅槃経四十巻の現証はこの品にあり。~法華已前
の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生を許すようなれども、ある
いは改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり。~儒家の
孝養は今生に限る。
未来の父母を助けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過去をしれども父母を助ける
道無し。仏道こそ父母の後世を助ければ聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前の大小
乗の経宗は自身の得道猶かないがたし。如何に況や父母をや。但文のみあって義なし、今法華
経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏も顕れ、達多の悪人成仏の時慈父の成仏も顕るれ。
此の経は内典の孝経なり、二箇の諌め了んぬ。と
第六、導師何故の事
善の導師
第七、天鼓自然鳴の事
随自意の説法、瑞相論。四箇の格言(念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊)と叫ぶ。
諸経と法華経と難易の事(P、991)
仏、九界の衆生の意楽に随って説く所の経経を随他意という、たとえば賢父が愚子に随うが如く
仏、仏界に随って説く所の経を随自意という。たとえば聖父が愚子を随えたるが如きなり。
学会が化儀の広宣流布しゆくことは随自意である。世間ではファッショ的だとか迷信だとかと
批判中傷を加えてきても、我々には何の野心もない。民衆のため、人類の為に戦うのである。
信心による浄らかな心、美しい団結、正義の旗を揚げて進む姿にこそあれ、言論界によく書か
れようとしておべっかを使うという見苦しい態度など卑怯な真似も一切必要としない。
以上 要旨記述 2013/01/12
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