御義口伝 譬喩品第三 信解品第四

譬喩品九箇の大事

*第一 譬喩品の事

三周の説法のうち喩説周である。(三車火宅の譬え等)

・松野殿御返事(十四誹謗抄)P、1382「譬とは比況なり、喩とは暁訓なり~大悲息まず巧智無辺なれば更に樹を動かして風を訓え扇を挙げて月を喩す」

・総勘文抄に、「一切経の語は夢中の語~譬喩とは功徳と罰である~」

・法華抄(父子成仏抄)P、1045  

「即身成仏のための信心」「近き現証を引いて遠き信を取るべし」

・聖人御難事P、1190「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣、万民始めは事なきようにて終には亡びざるは候はず」

慈悲とは、修行によって得られるものではない。大御本尊を信じ、唱題していくときに、自然と仏の慈悲の境地に立脚し生命の中に迸り出るものである。

慈悲は大善、折伏活動こそ大善である。

・総勘文抄に「生と死と二つの理は生死の夢の理なり妄想なり、本覚のうつつを以て我が心性をただせば、生ずべき始めも無きが故に死すべき終わりも無し、既に生死を離れたる心法に非ずや」すなわち、“生老病死”は今世だけを説き、法華に説く生命論は永遠であると説く」

*「法華の生死」について、

・御義口伝(下)P、753に「三界之相とは生老病死なり、本有の生死とみれば、無有生死なり、生死なければ退出も無し。唯、生死無きに非ざるなり」

・御義口伝(上)P、724に「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」

六道輪廻の生死ではなく、永遠の生命観に立脚し、妙法に照らされた生死が法華の生死なのである」現代は乱世で刹那主義であって正しい人生観を持った人が少ない。悲しむべき時代である。生命が今世のみであるならば、誰が法を求めて修行する必要があるだろうか。したがって我々の主観すれば生命活動、客観すれば生活自体が全部、因果の理法の中に在って逃げる事が出来ないという事を各人が覚知すべきである。世間法では国法と言えども罪を犯した者が逃げとおす場合がある。しかし仏法律は厳しい、因果の理法の生命活動を説ききっているから網の目が全くない。人が見ていようがいまいが、間違いなく我々の人生は原因結果によって連続している。おまけも値引きもない。よって誰人たりとも、この一生を大事に有意義に生きねばならない。

*第二 即起合掌の事

・諸宗問答抄P、380に「文字は是一切衆生の心法の顕れたる質(すがた)なり、されば人のかける物を以てその人の心根を知って相する事あり、凡そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質なり」

・木絵二像開眼之事P、468に「法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらわしぬれば、顕形の二色となれるなり」

・経王殿御返事に「日蓮がたましいを、すみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給え。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」しかしながら信心のない者は、大御本尊を軽く考えて仏の生命そのものであるとは思いもよらず、たんに紙に字が書いてあるぐらいにしか考えない。

・曾谷入道御返事(P1025)に「合掌向仏~非常と有情のあいだには区別がなく外面的なものであり、ともに十界互具の当体であるゆえ、非常もまた合掌向仏している。草木が太陽を求めるように、信心しようがしまいが、その人の心の動きは妙法を求め次第に信仰しなくてはならない情勢になってくるものだ。これこそ、明らかに向仏の姿なり。

*第三 身意泰然快得安穏の事

譬喩品で舎利弗が喜んでいる部分。「信心の目的は身意泰然、快得安穏

・選時抄に「道心あらん人々は此れを見聞きて悦ばせ給え。正像二千年の大王よりも後世を想わん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ。此れを信ぜざらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる~」

「我々信心する前は、なんとか真実をつかもうと闇中模索していた。しかし信仰なき人生は闇夜のごとくして、多くの人は挫折し現実と妥協し、時流に迎合し、其の中に浮草のごとくはかなき人生を送り、一方自己に忠実に生きようとすれば益々現実との矛盾にうちひしがれ置き場のない自己を見出すほかあるまい。芥川龍之介、北村通谷、藤村操、太宰治、三島由紀夫、川端康成等の自殺者、ロシアの文豪トルストイは夫人の間に悩み家出の果て、野垂れ死にした。フランスのモーパッサンも狂い死にし、ドイツのニーチエも非業の死を迎え、最高の思想哲学に到達できぬ人生がいかに惨めなものかを雄弁に物語っているではないか。

*第四 得仏法分の事

 「仏法の分を得たり」と読む。

・観心本尊抄に「所謂一往之を見るときは、久種を以て下種と為し、大通、

前四味、迹門を熟となして本門に至って等妙に登らしむ」

釈迦の法華経では等覚位までしか説いてない。しかしここまで行けば、一転して南無妙法蓮華経がわかるのである。

・十字御書(P1491)に「今、日本国の法華経を敵として災いを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもってをもうに今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし」と

*第五 而自廻転の事

御義口伝には草木成仏の証文として顕わす。意味は宿命転換を指す。

 観心本尊抄に「釈尊の因行、果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我ら此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」

 因果具時の原理による宿命転換を顕わす。

*第六 一時倶作の事

 末法に於いて、南無妙法蓮華経を根本として、我此土安穏の世界が築かれる。

 一念三千の法理によって宇宙に感応せしめるか。悪心を以て感応せしめるか。それによって世の中の状態が決定される。

*第七 以譬喩得解の事

鏡像の譬(自浮自影の鏡)とは、自らの形を浮かべる鏡のことである。

ソクラテスは“汝自身を知れ”といった。

絶対妙の立場から判じるならば、華厳も阿含も方等も般若もことごとく妙法蓮華経の一法に収まるのである。

観心本尊抄に「観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり。~明鏡に向かう時、初めて自具の六根を見る如し」

「十法界を見る」とは、南無妙法蓮華経と唱えることである。

*戸田先生の指導

「十界互具、一念三千を説く大仏法を信ずる我々は日常生活の責任が自分自身にあることを知らねばならない。~結局それは皆自分自身の生命現象の発露である。一切の人生生活は自己の生命の変化であり、よりよく変化し、絶えず幸福を掴んでいく事が大事ではないか。

・開目抄(下)に「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と

*第八 唯有一門の事

「三車火宅の譬」、一門とは信心なり。「自身法性の大地」自分自身の力、智慧、福運、それが第一義の問題である。その源泉は御本尊様しかない。

*第九 今此三界等の事

 この地球、宇宙は一体誰のものか!

 「三世間を論ずるならば、法律、経済、社会学等は、衆生世間、電気、化学、物理、数学等は国土世間、心理学、倫理学等は五陰世間の学問と言えよう。~ 日蓮大聖人の法門は、それを実践している学会の行き方はこの三者を統一した、色心不二の生命哲理が根本となるわけである。」

<信解品第四>  (信解品六箇の大事)

*第一 信解品の事

 心は疑惑を断ち切る利権なり、解という事は、智慧の別名である。信ずることによって智慧という宝を買うことが出来る。[信と解] 御本尊を信ずることと仏を悟こととは一体なり。信の一字こそ妙覚一仏のさとりの種である。

・「長者窮子の譬」~大聖人の、御本尊の子であり、大福運の持ち主である。

折伏され逃げ回り、いやいやながら信心したような状態であった窮子の姿そのものであった者が、信解によって、妙法を抱きしめ信心強盛になる。

*戸田先生の指導

文化人が混迷する思想に二つある。一つは知識即智慧とする考え方。智慧と知識は根本的な相違がある。但し智慧の本道に入るには知識の門を開いて入らねばならぬことは言うまでもない。

・「以信代慧」「以信得入」の原理。

「理は信を生じ、信は理を求める。求められた理はさらに信を深めるのである。」

・信と解の関係

 広宣流布への祈り、一心、一念、は「信」にあたり、「解」とは活動にあたり企画される構想、智慧等を指すなり。

 信は「無疑白信」~文証、理証、現証の大哲理(三証)

*キリスト教の「唯一絶対神」という捉え方

2世紀3世紀“不合理なるがゆえに信ず”11世紀“知らんがために我信ずる”

 17世紀デカルト「人は神の存在を信ずることが出来る、何故なら信仰は意志の問題である」とする。

 その後、実存主義者たちはキエルケゴール、ニーチエ、ヤスパース等は懐疑の仕方が不徹底であると非難している。これらの非難の論議を見て誠に下らんと思う。しかし現代において西洋人の人生観の中心となるものであり、

もし神の存在を否定するならば彼らの人生観は根底から覆り、苦悩の人生へと転ずるのではないか。

*第二 捨父逃析(じょうぜい)の事

 父とは、法華経、釈尊、日蓮大聖人の事。一切衆生の父の徳たる仏に背いたる者は諸々の悪道を輪廻する。折伏の悪口を言うものは、一切衆生の怨となり、三界六道の世界を、生死生死と不幸の姿で巡るのである。

*第三 加復窮困の事  (出離生死の用法)

 治病大小権実違目(治病抄)P997に「元品の法性は梵天、帝釈と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」

・四菩薩造立抄(P997)に「日蓮は世間には、日本第一の貧しき者なれども、仏法を以て論ずれば、一閻浮提第一の富める者なり」

*第四 心 悔恨の事

 父子一体、師弟不二の大慈悲を説かれた箇所。一切衆生は子の如し、日蓮は父の如し報恩抄に「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし」

*第五 無上宝聚不求自得の事

 御本尊を求めぬいてきたかというとそうではない。初めは気も進まず半信半疑の気持ちで入信したではないか。実践してみて偉大な大仏法であることが解ったのである。何の辛労もなく、大御本尊を受持できたではないか。

30分か40分の勤行で、大功徳を受け、宿命転換できるわけである。「受持即観心、直達正観」である。

・開目抄(上)に「此の仏陀は三十成道より八十御入滅に至るまで五十年が間一代の聖教を説き給えり、一字一句皆真言なり、一文一偈妄語にあらず。」

*第六世尊大恩の事

四恩 ①一切衆生の恩 ②父母の恩 ③国王の恩 ④三宝の恩

・報恩抄に「畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや」

三宝の真髄を知る事である。

以上 要旨記述 

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