「医王、薬王」の力 所感

心身の病気を治し、生命を健康にする力用。仏界の大生命力が、生命の苦しみを癒す働きを

 「薬王」となずける。病気を治すのは、自分自身だということ。自然治癒力が、病気を治す根本

 の力です。医者は、それを手伝うだけです。神が病気を治し、医者が金を取る”笑い話ですが。

 人間は、ガンや肺病になる体を持っている。同時に病気になった体から、病気を治す力も持って

 いる。あたかも、坂を登れば必ず降りるようなものです。

 形式ではなく、命を打ち込んで御本尊様にすがりつくのです。本当の決意を持った題目ならば、

 治らないわけがない。少しでも良くなったならば、心から感謝する事です。まるで御本尊様に貸

 しでもあるように、まだ悪いところがある、まだ良くならないという風に愚痴を言う。

 不知恩の行動が出ると、治ったものまで悪くなる。この信心に立った時、己心の薬王菩薩が、

 意気盛んと活動を始めるのです。自分の全細胞を一新させるくらいの決意で、祈るのです。

 60兆の全細胞の一つ一つの薬王菩薩をたたき起こして発動させるのです。

 仏法は、真の健康とは何かを探求した教えです。生老病死の四苦は観念論ではなく、どうすれ

 ば健康で、充実して長生きし、苦しまないで、死ねるか。そのための智恵を説いているのです。

 「戒」は生命を清浄に保つ事に力点を置く。それによって生命本来の働きを活性化させる。

 自己の生命が一念三千の当体であると観ずる土台を作っている。

 生命が健康であって初めて、永遠の生命を悟る素地ができる。病気とは人間生命という場の乱。

*日常語となった法華経の言葉

  一大事  ~  方便品の一大事因縁に由来。

  国民   ~  無量義経の国王、王子、国臣、国民の言葉。

  有り難い ~  安楽行品の是の諸の菩薩は甚だ為れ有り難し。

  不惜身命(身命を惜しまず) ~ 観持品に出てくる言葉。相撲界では昇進決意の定番言葉。

 仏法は道理です。道理に則った賢明の生き方。道理の上に、年齢や、境遇に応じて自分自身

 の生命力をどう保持するか、どう強めるか、そのコントロールが出来なければならない。

 四十台までは鍛えの時代とするならば、以降は保護の時代。そこで疲れをためない生き方を

 心がけねばならない。疲れを取るには、よく眠る事です。眠りは一種の「小さな死」と捉えるならば

 その休息によって生命力が充電され、次の日への新しい活力を得る。同じように「死」も生命力

 の充電です。老いたり、病気になった体を、いったん宇宙生命の蘇生の海に帰って、さっぱり

 とした、新しい元気な体になった方が、良い場合がある。これは、その人の信心の状態と、宿業

 によって一概には言えないが、唯、薬王菩薩の信心をやり通した人は、必ず生まれ変わること

 が出来る。

 どんなに長生きしても永遠の生命からすれば、50年や70年の違いなど、「瞬時」まばたきにす

 ら過ぎない。人間最後が不老不死の境涯に連なっているかどうかである。三悪道、四悪趣

 はかない人生であったかどうかである。不死の境地を見ないで、百年生きるよりは、不死の境地

 を見て一日生きる方が、優れている。

 ストレスや悩みをも生命力に転じていく、変毒為薬の妙法。健康とは、菩薩の生命。

*ルネ、デュボス博士(医学者)の言葉 ~ 健康という幻想

 地球は憩いの場所ではない。人間は必ずしも、自分のためだけではなく、永遠に進んでいく

 情緒的、知能的、倫理的発展のため戦うために選ばれているのだ。危険の真っ只中で伸びて

 いく事こそ、魂の法則であるから、それが人類の宿命なのである。

 「末法広宣流布の戦士よ!薬王菩薩のごとく命を燃やせ。」

*マハトマガンジーの言葉 ~ 私にとっての宗教

 私はなんの躊躇いも為しに、またきわめて謙虚な気持ちで言う事が出来る。宗教は、政治と何

 ら関係がないと言明する者は、宗教の何であるかを知らない者である。と

 理性の主張はへ向かう。しかし心の感動は苦しみから生まれる。それは人間の内的英知の

 開発を意味する。

 我々の内なる不純なるもの全て、不道徳なるもの全て、堕落し、また堕落しやすいもの全ての完全なる消滅が涅槃なのである。

以上 2012/06/29

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