伊藤亜紗 編
中島岳志・若松英輔・国分功一郎・磯部憲一郎
始めに
「コロナ」と「利他」(パンデミックを乗り越えるための利他主義)
他者のために生きる
第1章、制御できないものに開かれた「余白」 伊藤亜紗(美学者)
第2章、「贈与」:他力の根幹に関わる問題について。中島岳志(政治学者)
第3章、民藝」の美について(手仕事の美) 若松英輔(随筆家、批評家)
「利他」と名指す(記号化)することで死んでしまう。
第4章、「中動態」の枠組みから、「責任」概念
他者からの押し付けられるような責任ではなく、困っている人を前に思わず応答。_国分功一郎(哲学者)
第5章、小説家の立場から「つくる」行為の歴史性について
書くことは予期せぬ流れから「逸れて」いく事でもあり結果として小説の歴史に奉仕するための仕事になっている。_磯崎憲一郎(小説家)
第一章、「うつわ」的利他 ― ケアの現場から 伊藤亜紗(美学者)
合理的利他主義(利己主義)・効果的利他主義(自分にできる功利主義)共に「理性」を強調。数字による利他(共感を否定する)
地球規模の危機は「共感」では救えない。
・数値化と説明責任
「数字が人を見えなくする」~“教師や校長の昇給を左右するインセンテイブ”
・ブルシット・ジョブ(クソ仕事)~割に合わない、無意味、不必要、有害なのに意味があって必要で有用とするかのように、振るまわなければいけない。“ハンコ行政”の行方
・管理部門の肥大化 ~現場とは異なる価値観で介入することで混乱をきたす
・「利他」の最大の敵(他者のコントロール)
“助けてって”言ってないのに助ける人が多いからイライラする。
・信頼と安心
信頼;自分に対してひどい行動は取らないだろうと考えること。
安心;社会的不確実性が存在していないと感じること。
自分の価値観を押し付けてしまい、相手のためにならない“すれ違い”を生じさせている。相手の力を信じること、利他にとっては絶対に必要なことです。
・「利他」の大原則
自分の行為の結果はコントロールできない。“見返りは期待できない”
「思い」は思い込み;自惚れ、権力(支配)志向、自己陶酔に陥る危険性
“災害ユートピア”;予測不能、読めなさ。
どうなるかわからないけど、それでもやってみる。
相手の言葉や反応に対して「聞く」こと、自分との違いを意識すること
よき利他には必ず“自分が変わる”~ 他者の発見は“自分の変化”
・「うつわ」的「利他」~ 自分の計画に固執せず相手が入り込めるような
“余白を”持っている事が大事である。
・「余白」を作る ~ 想定外の可能性を受け付けない硬直した組織
管理されてはいるが人は活きてきません。
第二章、「利他」はどこからやってくるのか。 中島岳志(政治学者)
・「小僧の神様」(志賀直哉)と「利他」
贈与という利他的な行為に変に淋しいいやな気持 ~人知れずなにか悪い事をした後の気持ちに似通っている。(チエ―ホフの「かき」をモチーフに)贈与の中に支配と絡まってくる問題が含まれているようだ。
・モースの「贈与論」:三つの義務による贈与システム(自発性ではない)
- 与える義務 ②受け取る義務 ③返す義務
・クラ交換(パプア・ニューギニア)~ 超自然的な(神や霊の命令)
義務を命じる存在。純粋贈与ではない(交換の一種)
・ハウ =(物に宿る森からやってくる精霊たちの事)
「意思」の外で行われる交換システム
社会的な連帯が物の循環(贈与)によって成り立っているシステムが、
近代社会やマーケットによって失われているとされる。
・ポトラッチ = 贈与と負債
寛大さを誇示する儀礼 ~ 与える側ともらう側との間に上下関係つまり一方には返さねばという負い目と従属が生まれ(義務感)片方には(権力的支配)が発生する。
・一般的互酬性は権力の萌芽
- 一般的互酬性 ②均衡的互酬性 ③否定的互酬性
古代社会における社会の階層化の根っこに「権力」を生む問題が潜む。負債感に基づく互恵関係は「利己的な利他」の枠を超えていません。
・日本人の「ありがとう」という感謝の表現は、インドでは“ニコッ”と微笑みで示すことで相手のインド人には「わかったよ」というふうに伝わる。
・間接互恵システムとしてのダルマ思想
(ヒンズー教でいう個人の義務を果たしなさい)
“思わず”“ふいに”としか言いようのないものによって行われる行為。
・「聖道の慈悲」(自力)と「浄土の慈悲」(他力)
仏教でいう「梵我一如」 ; ヒンズー教のいうアートマンの否定
縁起現象としての「私」の存在 ~ 色・受・想・行・識(無我の我)
・あらゆる想定外の未来に生きている(様々な偶発性と相互関係で成立)
「思い」のほうに翻弄されていて人間のどうしょうもない「業」に対して例えば阿弥陀仏による他力(人間の意志とは別の力)に救済を求める生き方。
・私たちの中にはない(所有できない)「利他」とはどこからやってくるのか。常に不確かな未来によって規定されるものであるというのが、私のお伝えしたかったことです。
第三章、美と奉仕と「利他」 若松英輔(批評家)
・「利他」の原義
「利」とは何か~“君子は義に通じ、小人は利に通じている”儒教(論語)
「他」とは何か~自己を手放せ(最澄)・自利と利他の二利あり(空海)
・柳宗悦の「不二」の哲学~「民藝」、“下手物の美”
仏教では「自他不二」“二に在って一に達する道”これが「不二」の世界
“生と死・自と他”の存在はそのままでありながら「二」の壁を超える事は出来ないものか。
・言葉には避けがたい宿命がある。
語ることによる領域に限定するということが同時に起こり、ある対象を明示すると同時にそのものの本質から人を遠ざけ理解を疎外してしまう側面がある。言葉だけでなく“沈黙”の働きを用いることによってしか真の意味での「利他」なるものには触れ得ない。そうした存在の秘義を「民藝」が顕す美にまざまざと感じる。真の個人主義は真の「利他主義」であると。(ニーチエやホイットマンに触れ)ここでの主義は「道」に通じ、「個」の「道」は、真の意味での「利他」の道に通じる。
・「器の心」~ 「工藝」の美は“奉仕の美”
“民藝の器”には主張するべき我がない。“いのち”が宿るときそこに奉仕の心もまた宿る。飾られ、眺められるだけのものを「美藝」と呼び用いられることで「工藝」となる。
・「生ける(衆生)の伴侶」: 「利他」は行うのではなく生まれるもの。
濱田庄司(陶芸家)の言葉
・手仕事と「利他」の一回性 ~ 世に唯一つのものを生む。
飽きが来ないこれを「本物」と呼ぶ。
・本質を見過ごしてしまう三つの理由
- 思想(イデオロギー)「利他主義」というイデオロギーから考える
- 嗜好(好き嫌い) ③ 習慣(惰性)
・認知と認識(知識)~ 論理の道の先に「真理」はない。
現実は矛盾に満ちている、しばしば論理を超えます「利他」は論理の世界で考えるよりも現実世界で経験した方がよほど現実的でより「確か」です。
「論理」、「倫理」、「哲理」、そして「摂理」という四つの理
第四章、「中動態」から考える「利他」:責任と帰責性 国分功一郎(哲学者)
「能動態と受動態」の対立というのは存在していなかった(古代ギリシャの時代から)行為の矢印が自分から他に向かえば「能動」だし、矢印が自分に向かえば「受動」となります。
・「能動なのか受動なのか、どちらなんだ」~ 尋問する言語
何を問題にしているのか~「意志」古代ギリシャに意志の概念はなかった。
・ハンナ・アレント(哲学者)の定義
未来は過去の継続ではない。新しさ、過去との切断において存在するもの始まりを司る能力としての意志の存在が認められること、すなわち意志とは過去との切断を意味します。“これは私の意志でやったことです”
・キリスト教哲学による「無からの創造」
意志の概念を使ってその因果関係を切断する ~“責任の主体を指定”
・人間的因果性と神的因果性という「二律背反」の両立
加害者であるが被害者でもある。被害者であるが加害者でもある。
・「責任と帰責性」を区別する:責任から「利他」へ 自己の行為は意志によって統制されていると「勘違い」しているようだ。
第五章、作家、作品に先行する小説の歴史 磯崎憲一郎(小説家)
・作家は歴史に投げ込まれる ~ 作家の意図を超えたところに系譜のようなものが現れてくる。
・設計図のないとこるに生まれるもの、書いているうちにどんどん予期せぬ流れが作られていって、違う方向に向かう。
おわりに 利他が宿る構造
近代人は自己の行為は意志によって統制されていると「勘違い」しています。「民藝」による“うつわ”を論ずるがごとく人間の意志を超えたものに促されるときそこに「利他」が生まれます。
「中動態」は自己が行為の場所となり、“生成変化”が起きていくことに力点が置かれます。尚、小説の作者は小説の「うつわ」として存在します。
これらの感覚を「利他」の本質と考え意図的な行為ではなく、人知を超えた「オートマテイカルなもの」であり、そこに「利他」が宿る構造こそが重要だと論じました。これも人間が「うつわ」として生きることに直結します。
「利他プロジェクト」のチャレンジはこれからも続けられます。
より一層社会に問いかけていきます。
以上