宗教改革の物語

専門書籍

(近代、民族、国家の起源)

佐藤優 著

*ヤン・フスの「教会論」を読み解くことで、フスの活躍した15世紀に立ち返り、民族、世俗化、宇宙観の転換などを知ることが出来る。

いかなる時代にも、信仰、希望、愛が消え去ることはない。

<第1部;ヤン・フス>

(第一話)コンスタンツの炎(コンスタンツの公会議)

ドイツ、カトリック教会における最高意思決定機関の公会議開催

・異端と異教は異なる

キリスト教から見て、神道、仏教、イスラーム教は異教である。ところで、「同じキリスト教の陣営ならば、妥協の可能性があるのではないか」。

歴史的に顧みれば逆である。近いところにある小さな差異が激しい憎しみを生み出す。日本においても左翼と右翼の暴力的衝突は、ほとんど起きないが、共産党と新左翼派との関係は極めて悪いといったような有様。

共産主義は、宗教的信仰がそうであるように排他的である。世界観の独裁がキーワードである。不寛容と狂信とは、ほかならず宗教に源泉をもっている。

通常、宗教的熱狂のかげには、強固な世俗的利害が隠されているものだ。

共産主義国は、世界観の独裁体制である。

(第二話)見えざる教会

キリスト教は人間の救済を目的とする。

第一には、個人の救済。

第二には、共同体(家族、地域、職能集団、国家等)の救済。

それに対し、ユダヤ教徒は、救済の時期は未だ到来してないと考え、この世の終わりの日の救済を待望する。(終末論の枠組みで考える)

*15世紀には、民族や国家は未だ存在しなかった。

それでフス派は個人と共同体のためにカトリック教会と戦った。

・コンスタンテイヌス帝の時代にローマ帝国の国教となる。

聖書は教会の伝統に従って正しく読まれるときに初めて救済の根拠になるという考え方が定着(秘密結社)

*フスの教会論

ローマ教皇(法王)と枢機卿(カトリック教会の幹部)の指導する教会は人間の救済を保障しないとする捉え方。

「普遍的教会」~“現実に存在する真実であるという”了解が普遍的という。

  • 信仰深い者の集団 ②救済が予定された人々と見捨てられた人々の混在

③聖俗の権威と高位に預かる人々によって構成されているのではない

*信仰とは、目に見えないものを信じる事であり、権威を究極的に根拠付けるのは、神の言葉が記された聖書だけなのである。

(第三話)キリスト教徒とは

イエスの死、復活、顕現はすべてエルサレムで起きている。

第一グループの信徒;ヘブライ語をはなし、ユダヤ教徒イエスの教えの連続性を強調する。

第二グループの信徒;ギリシャ語をはなし、ユダヤの律法(割礼)を遵守  しなくてもイエスの教えに従う人々

・イスラエルのために国を建てなおすという意味は、国家秩序の再建と捉えるのではなく信仰としての教えがキリスト教会を作りだす。

ローマ教皇と枢機卿がイエス・キリストに仕える者として聖なる存在であることは一般論として認められる。(概念として聖なる者)

これは聖霊の力によって教会に保全されているのであって、彼らの属人的資質に基づくものではない。教会の長はイエス・キリスト以外にいない。

我々は聖書を通じてのみ知ることができる。キリスト教の基準は聖書のみに求めるべきだ。

(第四話)カルル大学神学部

学問とは真理を知るための技法、断片的な知識ではなく体系知を学問と言う。

・錬金術(アルケミナ)~「賢者の石」を保持する錬金術師

・不老不死・延命治療・老化防止の医療技術

・富は貨幣が自己増殖する資本という概念

「わたしはある」という神の名

・自由学芸部(自由七科)リベラル・アーツ

・肉体労働から解放された自由人に必要な教養

・実在論 ~ プラトンのいう普通とは実在

・唯名論 ~ 常識にかなった思想(普通とは名称でしかない)

15世紀において、ヨーロッパ大陸では唯名論が主流。カルル大学が実念論、

イギリスのオックスフオード大学も実念論の拠点であった。

<第Ⅱ部>;ジョン・ウイクリフ

(第五話)ウイクリフ

人間はこの世の支配者でなく、管理者である。

教会の主たる病原は、巨大な富にある。(教会に毒が注入された)

国家によって教会財産を没収すべきであると、一般国民や貴族によって支持された。ウイクリフが異端とされたのは彼はイングランド(国)に味方してローマ(教会)に敵対したからで、ナショナリズムの源流と捉えられた。

(第六話)ウイクリフにおける教会と国家

民衆は彼を反教皇の国民的戦士と見た ~ 実念論(リアリズム)を支持

*「出エジプト記」

モーゼが重労働に服している同胞のヘブライ人をエジプト人がムチで打っているのを見てそのエジプト人を打ち殺した。翌日ヘブライ人同士がケンカしていたので“どうして仲間を殴るのか”とたしなめると、“お前はあのエジプト人を殺したようにこの私も殺すつもりか”と言い返してきた。

そこでモーゼはファラオの手を逃れた。

不当な特権は、信仰を堕落させる。教皇が貧しい生活をし、柔和で福音の教えでキリストの羊を養いつつ生きていれば問題はないが、贅沢な生活をし、戦争好きで凶暴でかつ福音から離れキリスト教徒に対する責任放棄している現状にウイクリフは異議を申立てているのだ。

*「この岩こそキリストである」という、使徒パウロの言

ユダヤ教からキリスト教を

(第七話)神と民族の契約から、神と個人の契約へ

聖餐に関する言説(実体変質説)  パンとぶどう酒

・神と人間の契約は、イスラエル民族の指導者モーゼがシナイ半島において行った十戒が基本。エルサレムの神殿はバビロニア軍によって、前586年焼かれユダヤ国は滅んだ。民族としてのイスラエルは消滅した。そのような状況で、神とイスラエルとの関係は、神と一人一人のイスラエル人が新しく契約を結び直す事によって更新されるとエレミヤ(預言者)は考えた。

聖書を類比的に読む訓練を怠ると、哲学に頼りたいという誘惑が生まれる。

その誘惑を放置しておくと、信仰が偶像崇拝に転化してしまうのである。

反キリスト教的要素を除去することが神学の課題だとウイクリフは考える

(第八話)目に見えない存在(存在に関する確固たる了解)

パンとぶどう酒という物を神の子イエス・キリストとして崇拝することで偶像崇拝に陥ってしまう事が、ウイクリフには看過できなかった。

倫理観的観点からも、徳性、処女性、愛、希望などの概念も抽象的には存在しない。人間と人間の関係性からこれらの倫理的概念が生まれるのである。

・16世紀のルターやカルバンらの宗教改革は、歴史的にも重要な意義を持った。

この転換によってキリスト教にプロテスタンティズムという運動が生まれ、中世までのキリスト教信仰が矛盾しない仕組みをつくりだした。

・ウイクリフの存在論は、存在と本質を区別する。

死者たちも目に見える世界から姿を消してしまったがその本質は残っている。死者は消滅してしまったのではなく、目に見えない形で存在する。

現実に存在する個人は身分が高くても低くても、金持ちでも貧乏でも存在の本質をもっている。だからお互いに尊重し合わなくてはならない。

<第Ⅲ部、宗教改革>

(第九話)大分裂

ウイクリフ派が精神運動にとどまったのに対して、フス派が政治改革を伴う宗教改革運動といううねりを起こした。(これらの差異)

14~15世紀~16世紀(カルバン)当時の社会情勢については、1347年黒死病(ペスト)の大流行(人口の三分の一)疫病による混乱と並行してカトリック教会の大分裂が起きた。(教皇とフランス国王フィリップ四世)これを機にイギリスとフランスの間で100年戦争に入る。

(第十話)公会議運動

プロテスタント神学者たちは公会議主義には好意的である。これに対してカトリック神学者たちは慎重だ(ローマ教皇の首位権を脅かす危険性ありとす)

教会から世俗権力への力の移動があった(共同体としての教会という神学)

教皇には純粋に信仰上の至上権だけを認めた。

「必要は、法律を持たず」既成の秩序を破壊する時に役立つ格言

1,914年第一次世界大戦におけるドイツのベルギーへの侵犯(国際違反)

(第十一話)事後予言

・カトリック教会は、聖職者の独身制(特権的地位は独身制を条件にそのため子孫の存在を公言することは防止される)

現代における国家公務員試験、司法試験制度も、官僚の持つ権力が親から子に引き継がれることの無いようにする一種の去勢化である。

・一方プロテスタント教会では聖職者という言葉は用いない(教職者、牧師

*フスの時代のローマ教皇庁が分裂した原因も、政治的、軍事的権力が強大で経済利権が大きかったからである。

権力闘争、利権抗争がローマとアビニヨンに教皇庁が並立した原因であり、信仰のあり方をめげる分裂ではなかった。

(第12話)民族が生まれる

社会と教会は一体であると観念されていた。その後ヨーロッパ内部に分裂が生じ14世紀から約500年を経て民族という強力な自己意識として凝固する。

(第13話)権威の源泉

・ドナトウス主義 ~ 国家による教会の公認に反対。国家と教会の分離

聖職者の行うサクラメント(洗礼、聖餐などの儀式を無効とする)

・マルクスの資本論

商品は、貨幣に還元する価値と使用価値の二重性を持つ。貨幣を得ようとする利己的欲望が他人のための使用価値を担保し、それによって豊かな社会が成り立っているとする。(利己主義という悪の中に善が隠れている

・キリスト教は神以外の物を人間が崇拝することを厳しく禁ずる。聖職を貨幣と絡めること自体が貨幣という偶像に対するキリスト教徒の屈服とみる。

プロテスタントは伝統の権威を認めない。~ 聖書のみというのは、伝統を否定する事ではない.「聖書即伝統」「伝統即聖書」

・「使徒的服従」とは上位者への絶対的服従という観念は過ちであり、「使徒的服従」とは、聖書の中の使徒たちの言葉への服従を意味する。(職にある使徒の後継者ではない)

使徒的教会の三条件(謙虚さ)

  • 使徒たちによって設立②、世界中に広める③、使徒たちの後継者を通して治められ管理されている。

しもべになることで共同体を治め、管理するという逆説を説く。

イエス・キリストを頭とする目に見えない教会

・フスの教会論

Ⅰ、 神を礼拝する場として、正しく機能しているかどうか。

(信徒内の格差、内輪もめはないか)

Ⅱ、 目に見えない存在(イエス・キリストを長とする)

<第Ⅳ部、近代、民族、そして愛>

(第15話)近代の黎明

現実社会は、真実のキリスト教徒とそうでない人々で構成されている。

15世紀のチエコ(ボヘミア)宗教改革派、社会と教会の一致という擬制を崩した。歴史において、真実のキリスト教徒でない人々の領域が拡大し今日に至る。神中心主義から人間中心主義への転換(世俗化という現象)

・フスは、下降史観に立っている。時間の経過とともに、人間は“初めの教え”から離れ腐敗堕落していく、人類が進歩するという発想はないとする。

*普遍的教会が成立する三つの根拠

1、教会は最も高みにある存在(父と子と聖霊のすぐ後ろに控えている)

2、教会は永遠の婚姻関係を聖霊の愛によって、イエスと結んでいる。

3、神殿として教会を持つのは正しい(神が自身の神殿に住まう)

愛の絆で結ばれている「戦う教会」が真実の教会

(第16話)教会形成~(パウロの使命を実現する事が教会形成)

パウロの使命;キリストの内に隠されている「智慧と知識の宝」を伝える事

1、戦う教会 2、眠れる教会 3、勝利の教会。

(最後の審判で教会は一つになる)

教会のために奉仕する使徒、宣教師、牧者、教師、各々異なる機能を担って普遍的教会の形成に向けて努力している。自分の持ち場を守ることが重要だ。

分断されずに一つの教会を形成することを可能にするのが愛の力である。

(第17話)二つの剣

教会は愛によって結びついた共同体である。愛は決して滅びない。

信仰と希望と愛の三つはいつまでも残る。その中で最も大なるものは愛である。愛とは忍耐強い、情け深く、自慢せず、礼を失せず利を求めず、恨まず不義を喜ばず真実を喜びすべてを忍び耐える。

・パウロとユダの比較(差異)~ 正道に戻ることのできなかったユダ

(第18話)終末を意識する事

神は外部から人間に対して直接的に働きかける人形遣いではない。

歴史には始点と終点がある。真実のキリスト教徒を惑わせる反キリストが現れるという事は、終末が近いという事である。

(第19話)悪魔教会

信仰とは「望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認する事です」

・人が信仰を欠く三つの方法

1、弱さゆえの信仰のなさ(信じる事にためらいを感じる)

2、穴だらけの盾(信ずべき多くの物事を信じる事が出来ないでいる)

3、不品行のため、祝福された生き方を送れないでいる。

*人間が信仰を貫けない理由

  • 信仰心が弱い②イエスの教えを部分的にしか信じることが出来ない人
  •  頭では理解できるが行動が伴わない人

(第20話)新しいエルサレム

信仰は確実であるが希望は不確実である。(信仰と希望は異なっている)

神は人間をだます事もなければ、だまされることもない。

それに対して、ローマ法王を含む高位聖職者は、人間をだます事も騙されることもある。よって高位聖職者を信仰の基準としてはならない。

(第21話)悔悛

目に見える教会の聖職者であるから、信徒を救うことが出来るという発想が幻想であると警告する(人間を裁くことも赦す事ができるのも神だけである)

(第22話)青白い馬

権力の基盤に権威がある。 ①神の権威  ②この世の権威

1、白い馬(勝利)2、赤い馬(戦争、流血)3、黒い馬(死、不吉な事)

4、青白い馬(飢饉、疫病)5、殉教者の魂 6、天変地変(エリート層と

それ以外の層)7、7人の天使(ヨハネの黙示録13章裁き)サタンの獣

(第23話)パウロの再発見

われわれが生きているのは、罪を負った人間によって形成されている現実のこの世界だ。善人、悪人、智慧あるもの、愚か者に対して同じ出来事が起きるのである。教皇や高位聖職者が自らを特別の者と区別する事がそもそも自己絶対化であり誤りである。教会の使用人(僕)もしくは代理人である。

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、奇跡を行う者、病気を癒す者、援助する者、管理する者、異言を語る者 ~ (皆がそれを解釈するだろうか)

・フスはパウロの立場を再発見することによってカトリック教会を批判する。

ペトロは正しい信仰を持つ人物であるとともに罪からは免れていない。ペトロに限らず人間は誰もが神を否定する罪を負っている。そのような人間を教会のかしらにするという発想が誤りである。

・エジプト軍に追われたユダヤ人が、陸地を通るように紅海を渡ったのも目に見えないが確実に存在する神への信仰がもたらした結果である。

(最終話)愛のリアリティ“真実は勝つ”

近代人間中心主義(理性)~ 第一次大戦で理性に対する信頼は揺らぐ

・チエコ民族の成立と沖縄問題は信頼問題がキーワード

*フロマートカ

フスの宗教改革の特徴は、人間を過去のくびきから解き放し、希望を回復したところにある。

(あとがき)

・フスの宗教改革は、人間の希望を回復した

・われわれにとって正しい信仰とは何か

私達の生きる時代は、いわゆるキリスト教諸民族が世界をリードする時代が終わり、さらにキリスト教文明と呼ばれるものが揺らいでいる時代である。

以上 2019/05/07

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