日、中、韓問題について 馬留見_所感

はじめに

現代人は多くの悩みを抱えて疲れているようだ。人は努力している限り悩むものであり、しかもそれがストレスの増大に繋がりやがて病の因をなすという。

これが国家間の対立を伴うメカニズムへと移行するとなると、最早これは理屈を超えている。このような悩みには、真っ当な答えなどなく、あくまでも双方の思い違いにその起因を為すというから、なおさら厄介である。

このたびのゼミに於ける領土問題を歴史問題として扱う限り、政治的解決への期待は当分の間は望めそうにない事情を多く学ばせて頂き有意義な日々でした。

そこで私は我が七十余年の人生を省みながら視点を変えて、過去は問わず現在そしてこれからの人生で何が大切なのかを考えてみた。

人の世には、人それぞれに絶頂期もあればどん底の時もある。どん底から立ち直れるかどうかは生き方の問題であり能力の問題ではないとする。

Ⅰ、“人生苦あり、以て楽しむべし。人間死するあり、以て生くるを知る。”

人生にあって、まともな生き方が果たして可能かどうか?

人間社会も都市化の中で平和で安全を理想とするならば、それはその条件として常に食糧が与えられ、大量に飼育された家畜と同じ運命を歩むことにならないだろうか。これは、「バカの壁」で有名な解剖学者の養老孟司氏の指摘です。

Ⅱ、“禁じられた遊び”の国日本からの脱皮

勤労の美徳に支配され、仕事が趣味とまで言わせる気の毒な人が過去には存在した。進むことが唯一無二の正義であった時代は過ぎ、進むでもなく退くでもなく一時止まって荒波をやり過ごす選択肢も存在しえないだろうか。

他人や組織のために使うだけの生き方ではなく又、権力のあるものだけが勝ち残る社会でもなく、さりとて人気取りだけの弱者救済を声高に叫ぶのでもなく、

自分と同じ目線で生きていくネットワーク(共同体)を築く「共生の生き方」、周りの顔が見える仲間たちのために喜びが直接伝わるような仕事がしてみたい。

“暫しも休まず、鎚打つ響き”と歌われた村の鍛冶屋に見るような、本職以外の余技を楽しむ余裕も与えられず遊びを抑圧され、遊びが“遊び人”になり、やがて“道楽者“として扱われてきた。ところが現在では手前味噌と云われそうだが老後の生き甲斐よろしくサークル学習の一つとして「市民大学のゼミ」に見るような行動する「老人力」と呼ばれるまでになった。

Ⅲ、“自然との共生”を尊ぶ日本人気質に学ぶ

「素朴の美」という縄文的感性に重きを置き、“自然は征服する”ものという西洋思想とは相容れない崇高さ。茶の湯、生け花、和歌俳句、庭園に見るような自然を題材として“とことん削ぎ落とす”文化、又、能や歌舞伎に見る人間の手による所作の美。これらは世界に誇る日本独自の美意識である。

それに対し中国やヨーロッパの王侯、貴族の富と力の象徴とされる「金ピカ」の美に見る荘厳さを誇りとする文化とは対照的である。

Ⅳ、「三方よし」なる商人道 ~ 武士道に対する商道徳

「買い手よし」、「売り手よし」に加え「世間よし」 ~ 信頼と感謝の心

地域貢献と現場主義そのもの ~ グローバル化への歯止め。

Ⅴ、権力と権威の分離に見る調和の妙味

古来より権威の象徴としての皇室が権力者とは別に併存し調和する国。

“労働を神事”と捉える世界でも数少ない勤勉で優秀な国民性は定評あり。

Ⅵ、古代ローマ人との共通点に学ぶ。

日本人の弥生文化と縄文文化の融合(1万年近くも続いたとされる)と古代ローマが地中海世界で繁栄できた謎として先人たちが受け継いできた大きな理由は、被征服民族の信仰や生活スタイルを否定せずむしろ積極的に融合し共存した生き方に起因するとされている。この教訓を今日における民族紛争における大国の“力ずくの戦略の愚かさ”を気づかせるためにも、もっと声を大にして訴えていきたい。いずれ後には報復を生む戦略でしかないという事を。

Ⅶ、自然と子供の扱い方を忘れた現代人達に活!

自然とは四苦(生、老、病、死)として捉え、その脅威は誰人も避けられぬものとして、「生は少子化」、「老は介護、」「病死は医療」問題として人生全般にわたりその対応に当たらねばならない。

子供とは、想定外(予想を超えた行動、現象)と捉え、楽な生き方を意識でコントロールしようとする限り、自らの体で対応するという責任感は育たない。

地震、台風、津波、そして原発事故等を見るまでもなく、「災害は忘れたころにやってくる」といったように事前の対応策にも限界があり、事に当たっては先人たちの智慧に頼らざるを得ない。いずれにせよ身近な家族、隣人、地域住民等との信頼ある生き方が大事にされてきました。これは世界共通の意識であると同時に責任ある行動を伴う事を忘れてはならないと思います。

おわりに!

日本には、古来より慣習として“花鳥風月”との触れ合いを大切にしてきた。

ところがいつの頃からか宇宙の奏でる絶妙のシンフォニーに身を委ねる習わしを忘れ、かけがえのない宇宙との共振共鳴のリズムを狂わせ、我儘な不協和音を響かせて「感謝の念」を忘れさせてきたようだ。

もう好いではないか、何もそんなにムキになって年甲斐もなく競い合うのは如何なものか。社会保障のシステムの限界にさえ気づこうともせずに介護を強要するなぞもっての外、恥ずべきではないか。

以上 2013/12/27