*宗教というものの価値は大多数の人間にとってその重要性がそう簡単に解かるものではない。先人たちに教わってはじめてその重要性がわかる様になる。
宗教は「師弟不二が魂である」師弟を欠いた信仰は独断と偏見の信仰に過ぎぬ。先ず、師の教えを信じ実践し、結果の有無を確認してその法への信、不信を決める以外にない。それから道理と経文に照らして信仰を確立し、なぜそうなるのかを学んでいくべきである。
・戦前期の学会は、牧口自身が「罰論」を表に折伏を開始し大善生活という
「事の信仰」を展開していた。それに対して宗門側は、宗教本来の化他の精神から遊離していて「理の信仰」であったため他の宗派と同じく自らを保身する事が精一杯でそういった運動に対しては反対であった。
・「信行学」が一切の基本とする信心からは遠く離れてしまっていた。
*心が歪曲しておらず「認識と評価」とを立分けてありのままの事実をまっすぐ見つめられる純真な者であれば誰でも一切経の肝心は「法華経」であることを理解、把握することは大して難しい事ではない。
信ずるか信じないかの問題ではなく、何を信ずべきかである。
「善と悪」、「仏と魔」は常に一緒に現れる。大聖人仏法は悪に勝利するための法である。魔を魔と見破るには命がけの信心しかない。
小善生活の人には決して魔は起こらない。菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起こってくる。「魔との闘いに勝利せよ」。
“魔競ばずは正法と知るべからず”(p、1087)
“天台宗の人人の中にも法華経を信ずるようにて、人を爾前へやるは悪道に人をつかはす獄卒也。”(p、1088)
魔が起こらないで人を指導しているのは、悪道に人を連れていく獄卒ではないか。獄卒に盲従する信者ほど愚かな者はないのである。
自分で考える事がない。すべて人任せにしてしまう。黙って権力に従うようになる。これが昔からの民衆の態度である。いつまでたっても指導者たちに盲従させられるこのような傾向性は今もなお依然として社会に巣食っている。
尚、聖職者は必ず腐敗する。それが歴史の常であった。
教育なき宗教は聖職者に騙され利用されていく。一人一人の自立を促す対話にもとずいた宗教革命を最も重要視したい。
どういうわけか、善人たちはしばしば孤立してしまうのだが、悪人たちは見事なまでに結託する。悪人は自己防衛の本能から他と協同するようだ。
*牧口先生は云われていた。
もし信心していなかったならば、善良なる友人、知己のように、なるべく周囲の機嫌を損ねぬように、悪いことを見ても見ぬふりをし、言いたいことも控え目にして、人に可愛がらなければ損であるという主義を守っておれたであろう。
*三種類の生き方
- 強者にへつらい、弱者には威張る畜生のような生き方。スパイのように偽り親しむのを処世上では当然と心得るタイプ。
- 正直であり誰からも悪く言われない自我独楽の弱い小善者。
- 自己のみの安定に満足せず、正義のためには敵をも恐れず、心にもないお世辞は言えず、損と知りつつ偽り親しむことの出来ないタイプ。
*人材の三要素
- 1,確固不動の精神(負けじ魂の人)
- 2,楽観主義の人(信のある希望の人)
- 3,勇気のある人(声仏事をなす)
五濁悪世の末法今時、(闘浄言訟が当たり前の世相)何ものも恐れず、遠慮する事無く前を向いていく生き方。
“天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得可きか”
以上 2014/08/20
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