私の人間学(下)

池田大作 著

第四章、庶民として人生を生きる

1節、 民衆こそ真実の力

1、哲学不在の時代(ホイジンガの指摘)

過去には、ソクラテスやデカルト、カント、ヘーゲル、マルクス等思想哲学が息づいていた。誰が何と言っても、これだけはどうしょうもないもの、これが哲学である、之を持った人は強い。

豊かな人間性や、権力に抗する情念更にはその現実感覚を見据えていかなければならないだろう。大衆社会、情報化社会のリーダーシップは、それが出来るか否かの一点にかかっているといってよい。

2、民衆の現像(中国民族と現実直視の思想)

・中国文明(神様のいない文明) ~ 「個別を通して普遍を見る」

“天道は是なのか非なのか”

・ヨーロッパ文明(神のいる文明)~ 「普遍を通して個別を盛る」

侵略的、排外的、植民地主義

*トインビー氏は中国が今後世界史の軸になるだろうとの予感を持っていた。

・魯迅の“狂人日記”“阿Q正伝”にみる文学運動

・人民に奉仕する、人民に服務する(新しい普遍主義)

3、庶民の大地に根差す(前漢の宣帝にみる善政)

甘やかされた特権階級、庶民の味、庶民の心がわからぬリーダー

形式主義を排し、誰もがほっとする庶民性豊かなリーダー

4、畜生道の地球(桐生悠々の信念)

軍部権力は非を非として主張する自由すら弾圧した。

「私は言いたいことを言っているのではない ~ 言わねばならないことを、国民として ~ 人類として言わねばならないことを言っているのだ。

言いたい事を出放題に言っていれば愉快に相違ない。だが言わねばならないことを云うのは、愉快ではなくて、苦痛である。

権力を怖れ、その悪を本気で糾明する事もなく迎合に努めるジャーナリズムは益々権力の横暴を肥大させ、そのためにいよいよ権力を怖れるようになる。この悪循環が将来を危うくすることを私は強く危惧する。

                                 1、

5、宗教裁判の悲惨 ~ ケプラーの母と魔女狩り

カトリックの純粋性を維持し改宗を迫る事が、現実には異端者の取り締まりと処刑に眼目が置かれた。

中世ヨーロッパは、国王の王権と教会の教権とが併存し、社会機構と宗教が表裏一体をなしていた。れっきとしたキリスト教徒に対しても、教会の教義を批判した人間は徹底して弾圧された。

日本においても、江戸時代に宗教弾圧があった。法を流布するのが宗教者の使命にもかかわらず布教に伴う迫害を信徒にのみ押し付けて平然としている。民衆からの遊離 ~ 観念化し弱体化する。

第2節、開かれた家庭と教育

・志を同じくする夫婦の美しさ

“女人となることは、物に随って物を随える身なり”

・人を思いやる心  ~ 夏目漱石の「道草」にみる

健三夫妻のささいな心のすれ違いがやがて、二人を修復し難い仲へと導いてしまう。二人は互いに徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。

人はどうしても自分中心に考えてしまうものだ。

人を知り社会を知る中で自分の感情をコントロールして、相手の側に立って考えられるようになることが、人間が成長していく上で重要な要素と云える。

人心の妙に通じる ~ “生命の力”といえまいか。

・成長家族  ~ イプセンの「人形の家」 家族の意義を示す

人形の家の続編をどう書くかが問題であると、かって戸田先生はいわれた。

家庭の役割とは何か ~ 人格創造の場

自身の向上への逞しいエネルギーに満ちた家庭。「成長家族」と叫びたい。

ノラはより深い絆を求め、「人生の旅」の一里塚。マイホーム主義だけでは案外もろい。「人間の家」といえるものが築かれてこそ本物だ。

・結婚とは大きな意義のある創作 ~ 山本周五郎の「桃の井戸」より

“やのはしる事は弓の力 ~ をとこのしわざはめのちからなり”

夫は矢、妻は弓のごとし をやの心ざしをば子の申しのぶる

・親こそ最高の教育環境  ~ (強き母 キュリー夫人)

家庭教育こそ全人教育 ~ “子供は親の背中を見て育つ”

親自身の成長し行く姿に家庭教育のすべてのカギが握られている。

5章、歴史に見る人間の栄光と敗北

1節、 武田信玄  ~  万人を生かす慈悲心            2、

適材適所で人材を生かす。得てして自分と気の合う人や使いやすい人ばかり周囲に集めがちである。3と4を掛け合わせると12、又3と4を足すと7となる。相異なるタイプの人間でもうまく組み合わせかみ合った場合には両者の力を足した以上の力を発揮する。

・御大将の誉

  • 人の目利き②国の仕置き③大合戦勝利

“戦に勝は易く、勝を守るは難し”

・過ちなき人物の見方

  • 沈着と愚鈍を見誤るな②口叩き(饒舌で文章もうまい)③信念のない人

利発で雄弁、節操に欠け、利害にさとく、自己中心的である。

真剣さと責任感に尽きる。(自らの考えに固執する人は必ず行き詰まる)

賢将は五分の勝利を上とす。善戦は戦わず、善戦は死なず

“攻める謙信、守りの信玄” ~ “川中島の戦い”の構図

“勝って驕らず、負けて悔やまず”。将来の最後の勝利を第一と考えた。

敗北が次の勝利への因となる場合がある。反対に勝利の時に敗北の原因を作ることも多い。

家康にとって、生涯ただ一度の負け戦といわれた「三方ケ原の戦い」で、(信玄と覇を争った戦い)後の天下取りへの教訓と戒めにしたと言われている。

・「後継者育成の戒め」

慢心は怖い ~ 傲りと焦りから滅びていく。~ 勝頼の敗北

諌める家臣がいなくなっている。主君の顔色を伺い、その場しのぎの保身と、事なかれ主義の態度に陥っていた。戦国を乗り越えてきたという経験も鍛えもなくひ弱であった。民衆の心がわからずしては真実の指導者とは言えない。

人心が指導者から離れてしまえば、発展はあり得ない。これは時代を超えた方程式である。

2節、 ナポレオン

・大義名分と人情

ナポレオンは自由を教えたが、自由を与えなかった。

力の論理として、傲慢さを民衆は察知していた。民族解放という新しい思想が讃嘆されても旧支配層を始めとして多くの反発を招いた。何よりも自分の親族を占領した国々の王に任じて征服者として君臨していった。

誠実と真心を尽くしていく事。傲慢、増上慢、相手を見下げていく態度。

功なり名を遂げた立場に安住して新鮮にして的確な判断力を失っていた。

「前三後一」のあり方、

判断を狂わせた慢心と油断、苦難が眠れる力、新しい力を呼び覚まし発揮させるチャンスとなる。(ロシア民衆の潜在力)            3、

・人材不足と保守化

君主であり恩人であり兵法の師でもあったナポレオンを見捨て自らの栄誉や財産を守ることに腐心する。師を裏切り恩人を裏切る。背信の徒は自分で自分の心を死刑にしているに等しい。

過去の経験や成功に執着して社会の変化を見失えばもはや次の勝利はあり得ない。進歩と向上のないリーダーの下にある人々は不幸である。

第三節、 ナイチンゲール ~ “信念に生きる”

・自立した女性の先駆者 ~ 人生は戦いであり、不正との格闘である。

“理想を持つ、構想を育むという事は大切な人生の価値ではあるが、果たしてそれが現実との格闘の上で獲得したものであるか否か。”そこに一切のカギがあるように思えてならない。机上の空想はもろく、実践の汗の中から勝ち取った理想は強い。

・真実の英雄は謙虚の人

他者のために崇高な事を行う人が英雄であるとするならば、おのずとその要件は人格であり、慈愛でありその行動にあると言えよう。

無償の行為の充実感は何物にも代えがたい生命の躍動をもたらす。

・責任を持つことの真の意味

何かに対して責任を持っているという事の意味を理解している人は、責任をどのように遂行するかを知っている人という意味であるが~責任を持つ誰かが不在であったか、その人間が責任の取り方を知らなかったためであることが多い。現代は無責任時代などといわれる。彼女は「不平と高慢と我欲に固まった度し難い人間(そういう人間)だけには(なりたくない)もので演劇の合唱隊みたいに“進め進め”と大声で歌いながら一歩も足を進めないような人間にだけはならないようにしようではありませんか」と呼びかけている。

第四節、 吉田松陰

志を蓄え、信念に生きる。 ~ 人間の真価は逆境で輝く、行動で範を示す

人はただ言葉からのみ学ぶのではない。むしろともに行動する中からより多くのものを学ぶ~差別なく接して語らい共に笑共に泣く、松陰の行動振舞いは思想の反映であり、その範を示す事を自らに義務付けていたといって良い。

・一人一人の才能を開花

「松下村塾」の塾生は松陰によって、一人一人の才能が引き出されたがゆえに大きな力を発揮したのである。

・塾生のキセルを折らせたもの  ~ 「忍耐と愛情」

権威や立場で押し付けることなく、本人が納得し、自発性に基づくものでなくては不平不満が残るし、陰で規則を破る様になる。

・松陰の触発力の源泉 ~二年にも満たない間にあれほどの感化力を示す 4、

・「私利私欲,名聞名利」の心がない ~ 無私であり、無心

何よりも、その私心を超え志に生きる生死観こそが、弟子たちの心を捉えた。

“死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし(高杉晋作への手紙)”

・師匠は針、弟子は糸

門下生にとっては、松陰は人生の師であった。他から強制されたものでは決してない。大きな理想と云うものは、師と弟子とがそれを共有し、弟子が師の意志を継いでこそはじめて成就していけるものである。師が道を開き、原理を示し、弟子たちがその原理を応用し、展開して実現化してゆく。又弟子は師匠を凌いでいかなくてはならない。一方師は弟子たちのために一切をなげうって捨石となる覚悟でなくてはならない。

第六章、生命と宇宙を考える

1節、 「科学の世紀から生命の世紀」へ

・健康不安時代を考える ~ 生命の濁りと真の安楽(豊かで健やかな老い)

ストレスに打ち克つ ~ セリエ博士の説と菩薩的生命

ストレスを人生のスパイスに ~ 「菩薩の生き方」

いかなる人にも「六道輪廻」という境界がある。更に「四聖」という高次元の境がある。仏法はいわばストレスが充満するこの泥沼の如き社会にあってなおかつ仏界という最極にして尊厳なる生命を開く可能性を見出しその顕現のための具体的な法と道とを提示している。

・仏法の直観智は「十界互具論」として捉えている。

「セリエ氏が提唱するストレス対処法は、仏法の大乗の生き方を志向しているように思われる。菩薩とは、無上菩提(仏果)を求める人」「利他を根本とした大乗の衆生」をさす。“塵沙惑”といわれるほど現実の悩みは無数でありまた各人の悩みも千差万別である。

菩薩行とは、塵沙惑等のあらゆる煩悩を仏性の強きエネルギーで鎮静化させるのみならず、他へ波及させる中で充実した生を謳歌する智慧と力へと転換せしめるのである。あたかも、コップの水にインクを垂らせば、色づくが、大海に少々のインクを混ぜても色は消え去ってしまう。と同じように大事なことは、自分自身がどれだけ深い境涯を築き困難があっても悠々と乗り越えていけるかである。

・知衆化時代に必要な知恵

「知識即智慧」ではない。知識から智慧へ、そして真理から価値へと人間の不断の志向を築きあげていかねばと思う。

                                  5、

2節、 「生老病死」の深淵を探る

・医学が証明する生涯青春」 ~ 老化と頭脳の活性化

「生き甲斐の哲学」と「老いの哲学」

・延命の医学と人間の幸福 ~ 「深き生死観、寿命観」

「無理な延命をせず、静かに死なせてあげるべきだ」

「医療技術の及ぶ限り、最善を尽くすべきだ」

それぞれの立場状況また生命観、寿命観、孝養観によって意見は分かれよう。

日本の1億におよぶ人間も、100年後には一人もいなくなってしまう。その死後の生命はどこへ ~ こう思えば愕然とする。

東洋では、「生と死」はいわば本の中の1ページである。次のページが出てきて新たな「生と死」が繰り返される。ところで、ヨーロッパではどう捉えるかというと、人生は一冊の本のようなもので、「始めと終わり」がありとする。

仏法では、インドの「輪廻転生」と根差しながら、更に深い永遠の生命観の立場から「生死」という根本問題を説き明かしている。

・寿量品の方便現涅槃(方便して涅槃を現ずる)

生命は永遠であり、生と死を繰り返していく。森羅万象あらゆるものが「成住壊空」のリズムで動いていく。“有るといえば無い、無いといえば有る”。厳然と実在する存在。“我が心性をば、糾せば生ずべき始めも無きが故に死すべき終わりも無し”生命は無始無終であり死によって宇宙から消滅するものではない。

つまり、一念の「生命」我というものは、“生死、生滅、大小、広狭”の相対性を超えた不変の実在であり、これが生命の証しである。

仏法は「生老病死」「成住壊空」の永遠の繰り返しの奥にある「常住不変」の哲理である。

・死は悲のみではない  ~  日寛上人の「臨終用心抄」

長寿天」 ~ 八難処」成仏できにくい(成仏の境涯も得られない)

“先に臨終の事を習うて後に他事を習うべし”

「臨終の一念は、多年の行功に依ると申して不断の心がけによる也」

「正法の実践を貫いた日常の不断の宿業転換を為しゆく良き生の歩みが良き死を招き寄せていく」との法理。

・“断末魔の苦”~身体に64(120)の末魔(筋肉、脈管、靭帯、骨、関節)が臨終の際に断じ分解され激しい苦痛をもたらす。

四大(地、水、火、風)のうち、地は堅さ(骨と肉)水は湿で(水分)火は体温)風は呼吸)。この四大が空である心法を囲んでいるのが、人間の身体である。

・この断末魔の苦を乗り越えるためには                6、

  • 他人を謗る、苛める、心に傷をつける行動を慎むことである。
  • この身が四大の仮に和合したものであるという実相をよく理解して置く。

(驚かないように、覚悟しておくこと)その覚悟によって、心を乱す事を防げるからだという。

  • 自分の生命と仏の生命とが同一であると悟る。そのように確信して修行に励む事が最重要であり、何の憂いもなく、痛みも苦しみもない、新たな三世への旅立ちができるのである。

・心奥に広がる九識の世界 ~ フロイト、ユングと仏法の直観智

五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)六識(意識)七識(末那識)

八識(阿頼那識)~ 六識までは死とともに消滅するが七識、八識は続く。

・九識心王真如の都(根本浄識)

“此の御本尊全く余所に求ることなかれ、只我等衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり”

九識とは、自我そのものが無限の宇宙生命と融合している次元であり、生命の身体的、精神的なあらゆる働きが生じる根源であり、創造力の源泉そのものである。

・人間苦を乗り越える道  ~ コロンブス、マネ等の非業死

*トインビー氏の談

「為政者も各界の指導者も、死という問題に挑戦する事なく避けて通ろうとする姿は卑怯であり、最も恥ずべきである。」

無常とは変化のことである「無常迅速」とは老年にならぬとわからぬらしい。

・自己に関する無知からの脱出  ~ (不幸の根源)

第三節、 宇宙と心の世界

・星辰と内なる道徳律 ~ カント、ソロー等の言葉(実践理性批判)

どこまでも宇宙に対する敬虔なる姿勢を堅持しつつ、深き生命への探求と思索と行動をなしゆく人生でなくてはならないだろう。

以上 要旨記述 2014/11/21

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