私の日本論(抜粋)そのⅠ

池田大作(昭和51年)著

  • 人間が人間であることの難しさ

すべての人々が本当に人間としてのふさわしい行動を貫いているであろうか。

人間らしい一生を終えているかとなると、極めて難しい問題になってくる。

人間存在を、客観的に解明しようとする過去の学問の道も本来はそれが人生に処する主体的意識の確立につながると考えられたからこそ生まれたのであろう。そこには、すでに魂の抜けた宗教や道徳に代わって、理性と学問を源泉とし土台とする新しい原理の探求への瑞々しい希望があったはずだ。

言い換えると、人間に関する科学的な認識について現代人は過去のいかなる知識人を凌駕しているに違いないにも関わらず、人間いかに生きるべきかと云う問題になるとこれまたかってない酷い混迷に陥っている。

親と子、兄弟、親戚、隣人、友達など人間と人間との親密なる心のふれあいを通じて人間としての道が自然に追及され、受け繋がれていったのである。

幸福の条件を豊かな財産や環境にばかり求めそれを追う事に夢中で人間同士のあたたかな心のふれあいを傲慢にも切り捨ててしまっている。

今では単なる罵声になってしまった感の人でなし、とか畜生、非道などと云う言葉も人間の道から外れる事のを表現したものであった。

人間を人間足らしめる条件とは何か。ある人は「英知」と云い、「ホモサピエンス」と名づけ、ある人は工作することに特質を認め「ホモファーベル」と呼んだ。そのいずれも人間の全体像を表現したものではなく、それらを総括するものがなければならない。あえてこれを、「自己完成への意志」と名付けより人間らしくあろうと努力することによって真実の人間となる事が出来るのではなかろうか。人間が人間であろうことのこれほど易しく見えて難しいことも他に類がないだろう。

人間の一生は、自己完成への努力の連続であり死の瞬間に至るまで人間であることの証明の積み重ねでなくてはならない。

一生の大半を「生きるため」だけに費やした時代から生きている時間を何のために活用するかと思索すべき時代に入ってきている。

2、人間の幸福にとっての二つの敵は「苦痛と退屈」

それでは崩れることの無い本当の幸福とは何か。

第一条件としては、主体的、積極的に取り組む生命自体の姿勢にある。

闘う自分の生命の躍動の内にある。

第二の条件は、英知。人間社会の心理的、精神的世界を動かしている法則、原理を正しく認識せずしてはなしえない哲理。

哲人の言う「宇宙及び人間の指導原理」が何なのか。彼はただ「理性」と云っているだけだが、その実体は何なのか。それを何に求めるかが最大の課題と云えよう。

現在の「生」しか考えぬ人々にとっては、人間としてなんら非難されることの無い正しい生き方をしていたとしても、その善因が必ずしも善果を生まないのは何故なのか。そこでさらに人間存在の底に流れる一切を支配している法に叶っていないからだと考える以外になくなってくる。

結局運命とは、「原因結果」の法の枠外にあるものではなく、より深い法の上での原因結果の現象の顕れにほかならない。

人間何のために生きるかを考え求める事は、人間にとって自らを最大に生かす権利であり、義務でもある

3、人間生死の問題

生も死も人間の自由な意思から遥か彼方の次元で厳然と行われていて、ただその生死の河の中で束縛されているという問題は解決されえないのではないだろうか。どうしてもこの生死の縛に分析の鉾先を向けざるを得ない。

そこに解決の光を当てた「哲学」を得たとき始めて人間の最も奥深い座からの解放があるように思う。

4、自己完成の美

自己がいかに生きるか、いかに「自己完結」するかという事は、いかにして不幸の民衆を救うかの実践によって初めて全うされる問題である。

いわゆる「菩薩の道」とは、内面の自己完成と民衆救済の実践とを同時に究める生き方を至高するものにほかならない。

以上 要旨記述 2014/06/30

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