生命を尊厳ならしめるもの 論文「人間世紀第一巻」より

(はじめに)

・尊厳とは、ある意味での代名詞でさえあった。

・王による統治 ~ 王は神の子、神の代理人。

・古代ギリシャ的倫理 ~ 美、真理、善(プラトンの言うイデー)

歴史は一貫して、神に基盤を持つ尊厳観の展開であったと言ってよい。

尊厳性の淵源は多様化し、相対化して空洞化したにも関わらず、人間の奉仕と犠牲を求めるメカニズムは少しも変わっていない。現代人は、言葉の美しさと快さに酔いしれるのみで、理念を裏付ける実体に迫る術を知らない。

  • 人間精神の歴史と生命の尊厳観

・生贄の論理(原始社会の風習)アメリカ原住民のアステカ文明における儀式。対象は自然力への象徴化した神から王侯権力者へと移る。

古代に於ける殉死の風習として、埴輪を以て代えるようになった。

原始社会の風習の歴史は、人間の誕生以来おそらく99%を占める。

・巨大機械の誕生

文明化の歴史は、大部分が神に対する奉仕の為の工夫にあり、古代における大建築も、ほとんどが神殿であり、エジプト王のピラミッド、ペルシャの宮殿等に見られる。又、古代ギリシャの学問や芸術、文学等に見られる幾多の優れた作品は、やがて競技や演劇、詩などが朗読され神々の崇高さと美しさを表わすためのものであった。

文明の発達の結果は人間の自然支配力を増大し、神々への畏怖から人間を解放することとなった。神の支配を脱し自主独立の道を歩み始めた。

やがて増大した人間の力を組織的に統合し巨大機械を形成し(ルイス・マニフオード)その上に君臨する絶対君主が生まれるに至る。

古代国家ゆえに、近代以降も強大化し、人間の生命の尊厳への圧倒的な抑圧となっている。それは政治機構だけに留まらず、企業も、労働組合や思想、学術団体といえども巨大機械の原理と無関係ではない。

科学至上主義、芸術至上主義の背景には、真理と美への奉仕といった価値理念が存在した。現代では科学者の作業それ自体が膨大な資金を必要とするようになり、巨大機械の支配下に組み込まれてしまっている。

巨大機械の原理といい、真理や美、善の価値理念といい、いずれも超越的な神という一本の根から出たものである。

  • 人間主義運動としての革命の本質とその失敗

・高等宗教の誕生

原始宗教は天地自然を母なる大地と天空を父とするものであった。

それに対して新しく現れた神は厳しい父としての神であり、抱擁し、慈しむ母ではなく、突き離し自立することを求める唯一絶対の存在である。

温かく抱擁し慈しんでくれる母なる大地を持たず、厳しい砂漠の空のもとに暮らすイスラムの人々にとっては、自立へと導く法と原理を持った神としてのモーゼに救いを求めたのはうかがい知れる。

旧約聖書から発した宗教は、思想的、哲学的対決を迫るといった意図はなく、全能の神の許へ行く、救済の福音によって心を奪うか現実的な力の対決によって相手を圧倒し従属させる(聖書の預言者イエス、マホメット)

その点では、中国、インド、ギリシャでは法ないし原理が根本であり、

覚者として人々に接した事を重視したい。

・教会支配からの脱皮

キリスト教の教会から信仰と学問、芸術を人間の手に取り戻そうと近世啓蒙運動としてルネサンスと宗教改革は起きた。しかしキリスト教信仰からの解放を目指したものではなかった。大部分の科学者や哲学者、芸術家は敬虔な信仰者であり、信仰の情熱こそ彼等の思索、研究、創作活動を支えるエネルギーの源であったことを知っておく必要がある。

「王権神授」近世絶対王政 ~ 原理を王権自らのために活用

・ヨーロッパ・ヒューマンズムと世界侵略

ヨーロッパ人のみが人間としての尊厳性を持ち、他の民族はヨーロッパキリスト教民族のために仕えるべく神より定められた人種であるという考え方に立ち、神と王の名において自国への併合を進め侵略に及んだ。

・市民革命とナショナリズム

人間としての権利を掲げて革命は行われた。変革の歴史により王政は崩れた。だが民衆の心に根差したナショナリズムはなくならず、偏狭な国家主義、ナショナリズムこそ人間の尊厳にとって最も恐るべき侵害者であった。

・豊かさのもたらす危機

国家(巨大機械としての)の威力をそがれたとしても企業をはじめとする種々の組織の人々を自律的、能動的に行動していると思わせながら部品化し奴隷化していく可能性もむしろ増大している。

二度に渡る大戦に見るように、科学技術の巨大な力による破壊と殺戮の物理的欲望が大幅に充足できるようになった。

現在の福祉はやがていつ恐るべき災禍に変貌して襲いかかってこないとも限らないのである。

・心理の究明は無条件に善とは言えない

それをリードする道徳律、世界観、生命観の問題となる。力は使い方によって善にもなれば悪にもなる。

たとえ有り余る豊かさのなかにあっても、不満や貧窮感は常に付きまとう。もはや人間は欲望の奴隷に堕してしまう

・侵蝕される生命の連鎖

産業の発達により、自然破壊、生活環境の汚染、特に重金属による高分子化合物が生命の連鎖の中に紛れ込み始めた。~カドミウム(イタイイタイ病)

社会体制と幸福、物理的豊かさと幸福感とは直接結びつくものではない。

・なぜ言い古されるのみで実現しない当然の道理

人間生命の核心的把握がなされなかったことに起因する。

実体への核心的把握と単なる抽象的な言葉や盲目的、受動的に身をゆだねる信念では、現実変革の力とはなりえない。

  • 生命の尊厳性を考える視点

・規範としての尊厳観

カントによる尊厳とは、いかなる等価物をも置くことが出来ない。あらゆる価格を超えたものとする。しかも感情と同等に論ずべきものでもない。

・宗教的信念の問題

本来は宗教や哲学を基盤として出てくる尊厳観

・生命の尊厳観と自己変革

カントの言う「人間性を決して単に手段として取り扱わないように行為せよ」

牧口先生は「人間を手段として、用いるな」として国家主義、軍部に対向。

・十界論に見る生命観

仏界の生命の確立をめざし、菩薩界の生命活動を基軸として、こうした十界を懸命にリードしていく。

殺の心を殺す

善と悪とをよく判断して、自らの醜さを深く省みながら、しかもその本源にある生命の尊厳性を実感しうるところに人間の尊さがあるのである。

釈尊はそういった意味で、「殺す心を殺せばよいと」表現したかったのではないだろうか。

以上

昭和四十八年一月

池田大作全集1、論文「人間世紀第一巻」 (生命の尊厳より抜粋)    

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