「私の人間学(上)」 所感

「私の人間学(上)」池田大作著より

「人生の目的は何か」?結論的にいえば幸福になる事に尽きる。運不運といった相対的なものに左右されない不動かつ豊かな境涯の確立(絶対的幸福)と言えよう。

*アリストテレスの幸福観  ~  正義(徳) + アルテー(卓越性) = 最高善

 人間には生きる事にまつわる本能的なものから、自己実現の欲求にいたる次元までの欲望が

 ある。これらは自らの幸福を追求する力となると同時に、我執にも変っていく。

 ある仏典の「蚕と蜘蛛」の喩え話にあるように、自らの口から吐き出す糸を獲物を捕らえるためと

 する蜘蛛の生態と自らを束縛するように殻に閉じ込めてしまう蚕の生態との比喩は面白い。

 各界の一流の人物と言われる人は皆、実に謙虚である。苦しみぬく意外に上達の道はないと

 して「紙一重」の前進のためにしのぎを削り、そのために必死の努力を重ねる、わが生命の完成

 というこの一点への歩みとしての修業、精進を怠らない。

 仏法において信仰の目的を一生成仏にありとし、自行化他の実践を説く。どんなに有名な人も、

 権力者でも皆人間である。特別な人などいるはずがないならば、ともするとすぐに曇りがちで

 汚れ行く生命の不断の練磨作業が必要となってくる。この実践により大きな境涯と強い生命力

 を持つための原動力を得る事となり、あたかも明鏡があらゆる物の像をはっきり映し出すように

 世の中のあらゆる現象を明瞭に見抜くことを由とするのである。

*三木 清 (人生論ノート)  ~  嫉妬について

 自分を高めようとする方向に働くのではなく、他を貶めようと自分の位置まで低めようと、現在

 の自分の立場に固執するあまり後輩の成長を心良しとせず、羨みその活躍を妨げようとする。

 欲心と保身に終始し周囲の他人をも同じ低次元に引き込む事だけを生き甲斐にしているような

 人物もいる。そのような品性を欠いた低劣な生命の本質だけは鋭く見抜いていく眼を養ってい

 きたいものである。

*ストウ夫人(アンクル・トムの小屋) ~ 米の奴隷制度の悲惨さを描き南北戦争の原点となる

 彼女にみる何にも迷わず、そして負けないという原点を持つ人の強さと、原点を持たぬ弱い人

 の人生の末路の空しき儚さを禁じえない。人生の十字路に立つとき、世間の評価や名声といっ

 た移ろい行く価値観に流される生き方はいつか砂を噛むような空しい結末へと向かう。

*石川達三(四十八歳の抵抗) ~ 不惑を生き抜く力

 四十にして惑わず”とは言うが青年時代とは異なり、現実をうまく泳いでいこうとする狡さに傾斜

 していきがちである。一番危ない年代でもある。向上心を失ったところから、惰性や老化が始まる

 人間本来は、高い自己完成、人間革命を目指して永遠に努力していくべき存在なのだが。

*デカルトの情念論  ~  高邁な心と高慢な心

 自らの信念に生き抜く人を高邁な心の持ち主とするならば、ともすれば誰人も陥りやすい欲望

 執着憎しみ、怒りといった感情に動かされ、才能、美、富、といったものによって自らを高しと

 する卑しい感情の虜となり、時には臆病になったり、出世や名誉世間体により自らの信念を

 ゆるがせにする弱い生き方の人を高慢な心の持ち主というようだ。

 世間や周囲の評価にのみ神経を尖らせ、表面的な価値観に左右されて生きる生き方はあまりに

 も寂しい姿ではないだろうか。

*油断について ~ 人は弱点により敗れるよりは得意分野において墓穴を掘る帰来がある。

 人生で一番大切なことの一つは、人間を知る事です。どうしても、組織というものは、人を画一化

 する。知識も人間を抽象、一般化する傾向をもつ。人を自分の好き嫌いの感情や先入観で見て

 しまうことが多いものだ。生身の人間の現実を見失わずに進めるような、人格と洞察の高さと強さ

 と鋭さを持ちたいものだ。人は見かけでは解らないものだ。日頃は無口でおとなしいが誠を貫く

 真の勇者はいるはずだ。仏法の偉大さは生身の人間を愛し、そこに全ての出発点を置き真理

 見出すところにある、

*織田信長の時代把握力  ~  時代を肌で感ずる先見の人

 時代の底に渦巻く激流の方向を的確に見通す洞察力がなければならない。それを肌で感じる

 リーダーであるかどうかで一切は決まる。

 過去の固定観念に取り付かれ、次代を担う青年の成長を妨げるのではなく、共生する中で時代

 を呼吸するところに発展と進歩がある。エリート意識で民衆を見下す指導者ほど嫌悪すべき存在

 はない。青年は、卑劣なる指導者と戦う覇気を失ってはならない。「必死の一人は万人に勝る。」

 真剣な一人を次々と生み出していかねばならない。

*ブルーノにみる迫害と人生  ~  知と無知の戦い

 人間は人間であって決して人間以外のものでない。キリストを神としてではなく人間として見た。

 人間の信仰のために、見せかけの信仰とたたかった。

*死角のない五稜郭(五角形の平面を持つ城塞) ~ 明快にして見通しのよい組織

 どこかに不透明な部分を持つ人間。また何か心の底が知れない人はくれぐれも注意すべきだ。

 報告がない。顔をあわせることが少なくなる。明快でなく、不透明な部分が残るような時は、危険

 水域といえよう。

*反逆者の心理と構造  ~  慢心と虚栄に潜む「臆病の心」

 秀吉と光秀の主君に対する仕え方の違い

 光秀の日頃からの不満と反感が心の中で燻ぶり続け、本能寺の変という反逆の形で現れた。

 このように反逆者の心理は慢心と虚栄の裏返しであり、臆病である。

 貞観政要(政道の指南書、帝王学の書)

 ”忘恩の小人”を戒める。君子は一度受けた恩は生涯忘れない。ともすれば、功労のあった者の

 子孫が、甘やかされて、我儘に成り、堕落し、保身のために反逆すら行うという歴史の教訓。

 仏法の事が本質的によく解からないゆえ、信仰を求めゆく真の勇気もないままに名門名利に

 囚われ愚かさの故に、この臆病の心と対決することなく、振り回された挙句、誰からも信用され

 ない惨めな姿になるのが世の常である。

*「新平家物語」にみる人間観

 無常の世にあって常住なるものは何かという普遍のテーマ。

 大宇宙と比べれば、人間の営みなどとるに足らないものに過ぎないだろう。儚い権力や栄華を

 あたかも永遠のものと想い、争いを求めるとしても、結局は陽炎のように空しい人生に終わる。

 清盛の青年期から頼朝の死に至る約半世紀にわたる時の流れを書こうとしたと吉川英冶氏は

 述べられている。

*「阿部麻鳥と蓬夫妻」にみる一庶民としての理想の生き方

 名声や地位を得、財を為そうなぞという考えもなく、家庭を顧みずに無欲なお人好しの亭主に

 少々物足りなさを抱いている。蓬も世の多くの人が願うように、夫が功なり名を挙げそれなりの

 財を成し豊かで安定した暮らしを望む気持ちは強かった。貧しい人々のために家庭をも犠牲に

 する夫に腹を立て文句も言いもした。それにしても麻鳥の生き方の中に力強い庶民の理想を

 描く吉川文学の人間観を垣間見る思いがする。

 人間にとって最も大切な事は、心の満足と心の豊かさであろう。人は、職業や門閥の隷属物でも

 なければ党派、国家の帰属物でもない。時には一方をとし、片方をと決めてしまいがちで、

 セクト間同士の対決や葛藤の渦で揺れ動いているときは尚更である。人間を見る平等の眼差し

 に欠け人類愛や、世界平和を口にしても、自分の身近な人を粗末にし、不幸にするようでは、

 所詮観念の遊戯であり虚像にしか過ぎない。

*源三位頼政  ~  忍耐の末、「平家追討」にわが身の生涯を賭ける。

 平治の乱には加わらず中立を選ぶが源氏からは疎まれ不肖を買う身となり、一時は平氏に身を

 置きながらも苦渋忍耐の末に”平家追討”の狼煙を揚げる。

*義経にみる優しさと強さ(人間的魅力)

 一人を幸福にしたい気持ちも、人全ての幸福を願う祈りも同じ善意につながってこそ世の平和

 は成就する。恵まれた立場環境にあって堂々と指揮を執ることは容易だし、尊敬に値されるか

 もしれない。しかし大変な苦境にありながらそれにめげず腐らず初心を貫こうとしてこそ、人々と

 心を通わせ会うことが出来る。いつの時代でも、ひたむきな義経型英雄を好む(無私の人間のみ

 が持つ輝きとでも言おうか

*頼朝の冷徹さ  ~  天下を狙う権力者

 権力者はその義経が持つ無私の心が信じられず、眩さを覚え恐れを感じやがて嫉妬へと転じ

 排除へと向かう。人間の究極の善性を信じられるか否かの人間性の分岐点であるといえようか。

以上 2012/06/23

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