池田大作(昭和49年)著
- 上座部と大衆部
「求める人の一念の姿勢」 中道一実の妙法(正統派の条件)
自らの権威のための修行ではなく、民衆救済が大目的の修行(菩薩行)
教条主義(戒律に囚われる)破和合僧(自らの野心の故の分裂を図る)
原点に返れ(血脈と云う捉え方)
- 維摩経と法華経の関係
大乗の菩薩とは、自らが菩薩の修行を全うするとともに、現実社会に
仏国土(理想社会)を建設しようとする。
維摩詰(大乗の菩薩)は、二乗不作仏(菩薩と二乗の違い)に拘る。
(声聞、縁覚を破折)
生死輪廻の恐怖におののく(思慮分別のある)修行者には、その隙を魔が狙うように、(色、声、香、味、蝕)の煩悩が災いを為す。
*天女が天の華を降り注ぐと、菩薩たちには花は付かず、声聞(舎利弗)の弟子たちの体にぴたっとくっついてなかなかとれない。
維摩の家に入った者は、仏の香りを願い、悟りを求める心を起こして出てくる。 ~ 立派な信仰者の周辺には、それだけの感化力が備わる。
- 維摩と文殊の対話
「不二の法門」 ~ “維摩の一黙、雷鳴の如し”
「不二の境地」 ~ 言語道断、心行所滅の境地
娑婆世界(五濁悪世)は根性曲りが多くて釈迦や菩薩が大変苦労をしている。ここでは「八法」の実践をもって、さまざまな功徳を求める。
この「八法」なるものは、民衆救済の利他の実践に打ち込むと自然に得ることが出来る。
4、法華経こそ最第一であるという確信。これが「信」の実体
泥沼の水中から、蓮の花を咲かせるように、仏法の実践者も混沌とした現実社会の真っただ中で、そこに生き、民衆と苦楽を共にする人々こそが真に「法華経の精神」を体現した人と云える。
全ての衆生が平等に仏に為れるのだという仏法の根本原理を証明する実践者が、最下層の下積みの民衆の中から現れなければならない。
「本化地涌の菩薩」の出現に滅後を託したというのも、釈迦仏法の限界の一因があった。又、釈迦仏法の限界として、金ぴかの仏としてではなく、一人の偉大な宗教家として捉えた場合、一個の人間“ブッダ”と捉えた場合、自己の限界も充分に知っていたし、特に彼が王宮の出である事は、一般の在家信者との間に溝を作るマイナス面を持っていたとも考えられる。
「理念」として、平等を説いても釈迦自身が王宮の出である以上現実の生きた思想とはなりにくかった。
「方便品」を中心とする前半部分では、九界の衆生にも仏界が備わっているという事を真理として説いている。
「如来寿量品」に於いて、釈迦自身もまた五百塵点劫の久遠に於いて菩薩の道を行ずることによって仏になったと説く。その時修行したのが
「妙法蓮華経」の一法であったという事です。
一切衆生の生命に仏界が備わっている事、そして仏を渇迎する一念が強まっていけば、それぞれの生命に仏界を湧現することができる。
- なぜ初めに阿含部の経典が表面に出たのか。
出家僧達の行動を規律する教えを明文化するためであったようで、悟りの実体をあまりにも高い次元に置いたために、彼らにとって仏が手の届かない存在となってしまった。それに対して大乗教徒達は仏を自分たちにとって極めて近い存在と見た。利他の行に励むならば、誰でも仏になれるとした。小乗部派仏教が阿羅漢を目指したのに対し、大乗教徒達は菩薩たらんとした(声聞思想)。
以上 要旨記述 2014/09/09
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