政治と宗教について

政治は大地に育つ千草万木の如く変化の世界であり、相対的な世界である。

宗教はそれらを育む大地の如く、政治のみならず、経済、教育等のあらゆる文化の本源であり、

永久不変の哲理である。

又、政治は技術であり根底には必ず理念がなくてはならない。

今日、自由平等思想を政治の世界に具現して行くためには、どうしても生命の尊厳が大前提に

ならなければならない。それには、生命哲理をあますところなく説ききり個人の絶対的な幸福を

実現しゆく力ある宗教によらなければならない。正法をもって国を治めることに尽きる。

そこに政治理念を何処に置くかが問われてくるのである。近代政治が叫ばれる昨今の政治理念

のためには、法理念実現のための技術的活動として、古くにはギリシャのプラトンが求めた哲人

政治に見る哲人国家から、国家権力の行使に力点を置いた専制君主制の時代、そして近世か

ら現代に至る欧米に見るキリスト教民主主義、中近東周辺に見るイスラーム圏社会、又、インド

に見るヒンズー教による階級社会、そして東南アジア、日本に於いては仏教というように全て宗教

を根底とした社会国家の存在を認識する事ができる。しかしながら現実には、社会から目をそむ

け宗教本来の人間救済への使命を失っているようで残念である。

国家と権力について

偉大なる宗教、哲学なき政治は根無し草であり、権力の争奪と民衆の不幸を繰り返すのみである。

権力というものは、単に悪と捉えるのではなく、指導者(リーダー)の資質、人間性、理念の高低が大切な要素であると捉え、人間革命の重要性を強く求めたい。

日本において、大衆民主政治を標榜する意味において、大衆の知的水準や教養の程度は全体

として残念ながら高度とは云えない。情緒的、衝動的であって理性的とは認められない。

時には衆愚政治に走る危惧さえ感じる場合がある。そういった意味から政治の根本を何に求めた

らいいのかを追及したい。党利党略、派閥のための私利私欲に走る一部の政治家の姿は醜く政治不信と無関心、そして政治への消極性へと流れ意識の低下に歯止めが利かなくなってきている。

政治機構、特に行政機構の肥大化に加え、官僚制の問題等何よりも一人一人の主体性の確立

(人間革命)こそ先決なりと叫びたい。

議院内閣制の名の下に議会制民主主義が多数決という錯覚の上に成り立っていて、必ずしも

民意の反映としての効果を果たしていないように思われるてならない。政治の根本は、国民への慈悲の行使にあると訴えたい。その意味で衆賢政治を目指してほしい。

創価学会と公明党との関係

政党としては大衆政党として、個人の救済を根本とする創価学会(宗教)の王仏冥合思想(哲学)に理念を置き社会平和(政治)を目指す。仏法民主主義、人間性社会主義、地球民族主義なり。

日本人として、日本の民衆に根を下ろした政党色として、対米追従や、中共へのご機嫌伺いやロシヤの動向に振り回されない自主性ある独自の政党として国民の支持を仰ぐ。

学会としては、公明党を支持母体としても他の政党と同じく政治を監視し意見を述べる事は当然

であるとするものである。大臣の椅子は権力欲、名誉欲の道具と見做し大衆政党に徹する。

「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」

王仏冥合の思想は、仏法哲理と慈悲を根本とし大衆福祉である。(仏法民主主義)

生命の浄化、人間革命を成し遂げた者が政治を行う。これを個人の生活に当てはめた場合には、

生活が王であり、信仰が仏である。信仰によって生活に功徳を受け、幸福になって行く姿こそが

王仏冥合といえる。この個人生活から社会的規模へ拡大し発展させて行くのが政治における王仏

冥合である。創価学会を単なる一宗教団体と見たり特定の政治団体と見るようでは、木を見て森を

見ずの感、甚だ遺憾であり見当違いも甚だしいと言わざるを得ない。

以上 2012/11/30

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