人間革命第9巻 展開の章 所見

政治活動というものは、広宣流布の大構想から見るならば、一つの分野の活動に過ぎない。

 これが、広布のための本格的な闘争であると思ったら大間違いです。そう思われたら其れこそ

 困る。まだ一分野での第一歩の展開です。

 広宣流布は何処までいっても結局は御本尊様の仕事です。自分達がやっていると思うのは

 一種の傲慢です。いついかなる場合でも、透徹した信心が要請されるわけである。

 創価学会が政治化したのではなく、一補助活動としての必然の政治活動に過ぎぬというので

 ある。彼は、政治形態を批判していたのではない。政治そのものに巣くう魔力が問題の焦点

 であった。

 何よりも信心による団結を呼びかけなければならなかった。信心で勝つ”信心を忘れた活動に   

 陥る事を何よりも怖れた。

 選挙だ、選挙だという言葉は浸透していたが、 ~ 家庭の票の行方すら曖昧なのである。

 同志的団結は選挙に流されて、何の力も発揮していない。信心はいつ、どこで消えてしまった

 のだろうか。選挙テクニックに信心が流されてしまった感じだ。

 御本尊を中心とした同志の信心の団結でなければならない。我々は、選挙のための選挙をや

 っているのではない。信心の原点を忘れて、一体我々に何が出きるというのか。

 選挙があろうとあるまいと、学会の行事はいささかの変更も無く推進する事がたゆまざる広宣流

 布の生態でなければならない。座談会も地区講義も堂々と開くべきです。家庭指導もさらに活

 発にやらなくてはならない。

 日常の学会活動の一切を選挙活動に切り替えるのではなく、堂々と信心の活動を推進してい

 けば、それが勝利に繋がるのだと一同はこの時知ったのである。

 彼は組織の活力を座談会、その他日常活動の一層の活発化によって、先ず取り戻さねばなら

 ないと考えた。そうしなければ、信心は支援活動に呑まれてしまって姿を没するだろう。

 時には、悪にも天使にもなりうる人間を彼は直観していた。

 この魔性こそ、権力に潜むように見えて実は人間の生命にもともと潜在するところのものだ。

 権力は縁に過ぎぬ。自主性を最大限に尊重し、啓蒙はしたが制約や強制は絶対に避け、固く

 戒めた。候補者の人望なくして、どうして当選など出来様ものか。

 私の云う国士とは、行動する妙法の革命児のことなのです。広宣流布の遂行者といってよい。

以上 2012/09/08

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