日本の文化 馬留見_所感

*日本の文化に二つの流れ ~ 「村文化」と「海文化」の違い

於保哲外氏のセミナーより

 村の文化」について!

  長い物には巻かれろ。世間体を気にする。白黒はっきりさせてはいけない。出しゃばるな。ず

  うずうしいのはいけない。人の目を気にするというのは、顔見知りの眼を気にするという事であ

  って、旅の恥はかき捨てといった一面も存在する。

 「真面目」について

  謙虚、控えめ、謙譲の美徳、奥ゆかしく、男は黙って、女は一歩下がって、人に気を使って

  人に合わせて、自分が我慢をして、出しゃばらず、いい気に為らず、調子に乗らず、天狗

  になってはいけない。 ~ 自分を殺す”

  今の世の中悪い人がなんか元気なんですね。真面目でいい人が元気が無くて病気になり勝

  ちなんです。いい人が自分を殺すという間違った生き方をしている事が問題なのです。

  出すぎた真似をすると村八分になり、白黒はっきりさせる人は嫌われる。

  悪がのさばっているといいますがそれより”自分を殺す”という間違った事をしていることの方が

  問題なのです。これからの時代は人道的競争の時代であると牧口先生は予言されていた。

  だから真面目でいい人が、思いやりがあり、心優しくある人がもっともっと言いたい事をずけ

  ずけと正義の主張をしていくことです。

 「海の文化」について!

  創価学会三代の会長は不思議と全て「海の文化」出身なのです。又、日蓮大聖人も漁師の

  子でした。初代牧口先生は、柏崎荒浜の漁師の生まれ、戸田先生は石川の漁師(北前船の

  船長の子)、池田先生も江戸っ子で海苔やの息子。

  在家仏教運動と牧口教育学とは、人間主義を前提とした運動としてスタートしたのです。宗

  門側には元々なかったものですから、”生意気だ、信徒が大きな顔するな、”という体質がずっ

  とあり、まさに村の文化と海の文化との対立だったのです。

  日蓮大聖人は時の最高権力者と渡り合い、牧口先生も国家主義と真っ向勝負を挑まれた。

  これが三代の会長の師弟不二の根底にある創価思想なのである。

 *一生成仏抄(P383)

  「故に妙法と唱え蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名ずくるぞと深く信心を

  発すべきなり。」

  学会信心が何時の間にか「村の文化」の宗教になっていた。真面目に頑張っている人が意

  外と開けないで、そうかと思うとチャランポランでずうずうしくて要領よく立ち回っている人のほ

  うが意外とうまくいっている。人に持ち上げられて益々開けていく。正直者がバカを見て、悪

  い奴ほど太る。という現象が確かにある。実はそういう現象が起きるもう一つの法則がある。

  ”自分を殺し、自分が我慢”をして、自分を粗末にしている人は福運を失い人からも粗末にさ

  れるという法則。どうしてなのか。妙法の当体”を殺しているからです。

  同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら自分の命を輝かせながらやることは

  福運になり人からも大事にされる。

  ”折伏すれば開ける。新聞啓蒙すれば幸せになる。財務に頑張れば、幸福になる。”こういう

  のを餓鬼道といい、見返りを求めている。開けなかったら恨みに為る。菩薩道とは根本的に違う

  んです。ギブアンドテイクではないのです。自己犠牲精神じゃないんです。喜んでやるんです

 *勤行二座の御観念文「本尊供養」について

  この本尊自分のことと思ってやってますか?仏壇の中の御本尊って思ってませんか。

  ”若し己心の外に法ありと思えば全く妙法にあらず。”(P383)

  ”此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と

  唱うる胸中の肉団におわしますなり。”(P1244)

  村の文化に毒された「念仏文化」が怖いんです。偉大な御本尊様におすがりし、その功徳と

  智慧を分けて頂こう。これが念仏文化というんです。

 *見宝塔品  ~  御本尊は我が身を偉大な宝塔と見るための明鏡と捉える。

  法華経と爾前経の差(権実相対)

  大乗経の世間では全く相手にされず、差別されていた人達(最悪の自分)を、実は偉大な妙

  法の当体であると法華経にいたって二乗作仏、悪人成仏、女人成仏を説いた。

  最悪のときに自分を慈悲の心で温かく包み込める人は、本当に苦しんでいる人を我が事のよ

  うに温かい心で包んであげられるでしょう。ところが心の奥底では弱い人だな、自分に負けて

  だらしない人だなと見た場合、自分を見る眼が人を見る眼なんです。したがって、最悪の自分

  を卑下せずに自分を慈悲の心で大きく包み込みながら尊敬できる人は、また人をも尊敬でき

  ていくんです。

 *池田先生の指導

  何を根本として尊敬するのか。それは自身の生命である。~何が起ころうとも尊敬から出発

  これが御本尊を持つことですよ。

 *生死一大事血脈抄(P1337)

  「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別なしと解りて妙

  法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事血脈とは云うなり、此の事は但日蓮が弟子檀那等の肝

  要なり法華経を持つとは是なり」

  「謗法不信」の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に、生死一大

  事血脈之無きなり。

  「法華不信」の者は「其人命終入阿鼻獄」と説きたれば、定めて獄卒迎えに来て手をや取り

  候はんずらん」

  所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱える人を「是人命終千仏授

  手令不恐怖不随悪趣」と解かれて候。”

  傲慢、慢心”の慢とは、人と自分を比べて自分が優れていると見る心。その奥底には劣等感と

  自己不信がある。自分の生命を賛嘆しながら生きていく事だ。

以上 2012/09/19