法華経の智慧第三巻

御書関連書籍等

池田大作 著

・見宝塔品 第十一(上)  「我が身が宝塔と見る」

(妙法流布の行動者こそ宝塔)

「法華経に基いた対話」~軍事力よりも強いのは人間対人間の友情である。

“宝浄世界とは我らが母の胎内なり”(P、740御義口伝上)

“有仏とは諸法実相の仏なり、多宝仏というなり、胎内とは煩悩なり、煩悩の汚泥の中に真如の仏あり、我等衆生の事なり、今、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを当体蓮華の仏というなり、云々”

“出胎する処を湧現と云うなり”(P、797御義口伝下、宝塔品)

「宝塔の出現」「多宝如来の証明(讃嘆)」「三変土田」「十方世界の分身諸仏の集合」「釈迦、多宝の二仏並座」 ~ 「虚空会」の儀式

「宇宙即我」宝塔のイメージとは、宇宙的である。

“妙法を信じ、南無妙法蓮華経と唱えゆく人間の生命そのものなのです御本尊を拝している自分が多宝の塔なのだとわかればあとは何もいらない。”

「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房」此れより外の才覚無益なり。

*戸田先生の指導

ある学者の方に、「大聖人様は、法華経を説かれたけれども、宝塔がたたなかったがそのわけはなんですか?」と聞いた。(答えがない。)仏法を観念で捉えがちな学者の落とし穴です。あなた方の体それ自体が宝塔なのです。その宝塔の中(あなた方の体の中)に釈迦、多宝の二仏がお座りになって、上行菩薩という方を呼び出したのです。

我々の生命には、仏界という不思議の生命が冥伏している。~ 現実に我々の生命それ自体も、冥伏せる仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。すなわち、釈迦は宝塔の儀式を以て、己心の十界互具、一念三千を表わしているのである。

“汝自身を知れ”とはソクラテスの哲学的命題 ~ 宝塔

境智冥合(自分らしく輝く)

本来だれもが仏である、これが境。その仏界を輝かせる智慧の光「以信代慧」

「二仏並座=境智冥合」

多宝如来は法華経が説かれるところには、いつでも現れる。これは永遠の真理である。それを「いまここで」顕現させる釈尊、「いまここに」しか永遠なるものは顕れない。あとは全部幻です。如来と云っても凡夫です、人間なのです。釈迦多宝の二仏というも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ(P、1358諸法実相抄)

*「宝塔品の儀式」と御本尊

「宝塔品の中の二仏並座の儀式を作り顕わすべき人なし」(諸法実相抄)」

「是、全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏刷りかたぎたる本尊なり。(P、1243日如御前御返事)

「此の無作の三身をば一字を以て得たり、所謂信の一字なり」(P、753御義口伝下、第二如来秘密神通之力の事)

*戸田先生の「獄中の悟達」(御本尊根本の信心)

聖地巡礼、宗祖ゆかりの地を特別の地として崇める~伊豆、佐渡や鎌倉、身延など。それらを聖地とするのではなく、何処までも御本尊根本。強盛な信心で拝するところ、いぞこであれそこが最高の聖地であり虚空会である。

「自身を荘厳する七宝」 ~ 聞、信、戒、定、進、捨、斬

・見宝塔品 第十一(下)  「三変土田と六難九易」

「人間を手段にする者」との戦い

「三変土田」は、国土の浄化のみではなく自身の一念の変革を明かしている。

国土の浄化を「三惑」を打ち破る事による、「三変土田」と捉える。

「三惑」、見思惑(思い違い考え違い)塵沙惑、(他人の悩み)無明惑(元品の無明)

日本と中国は隣同士の仲~日中友好を推進(中国とアメリカが対立してた時代)

不信を信頼に変える ~ 病める人間生命を健康にする。

「三箇の鳳詔」 ~ 滅後の弘通(令法久住)

  • 妙法のバトン②多宝如来及び分身の諸仏の来集③六難九易(弘通の至難)

御義口伝宝塔品の此経難事~「此の法華経を持つ者は難に遭わんと心得て持つなり」~(権力の魔性)

「元品の無明は第六天の魔王と顕れたり」~(P、997治病大小権実違目)

この克服こそ難事(外面世界を動かすよりも内面世界を変える方が難しい。)

リーダーが人に苦労を押し付ける事も権力の魔性の一つ、嫌な事、大変な事は人にヤラセ、責任も人に押し付け、自分は甘い汁だけ吸おうとする。

・提婆達多品 第十二(上)

「悪人成仏=善の勝利」の偉大な証明

「二箇の諌暁」

提婆と竜女の成仏を通し、滅後の弘通を菩薩たちに勧め諌めている。

一切衆生の即身成仏

信仰者とは、自分と闘う人間、権力者は人を動かし人に苦労をさせ自分を見つめない人間

善と悪とは実体ではなく、どこまでも関係の概念 (一人の人間が初めから善人とか悪人であるとか決める事は出来ない。(善悪不二)

*牧口先生の対話(獄中闘争)

“悪いことをするのと、善いことをしないのは同じか”悪い事もしないがかといって善い事もしない“悪と戦わないのは、悪を為すのと同じだ。”

・提婆達多品 第十二(下) 「竜女成仏」 女性の人権宣言

竜女の話は、威張っている男が女性に負けた。智慧第一の舎利弗も竜女の信心にはかなわなかったという物語。

竜女の即身成仏(法華経の力)~智積と舎利弗の不信

即身成仏とは“苦しむ人を救わずにはおくものか”という仏の強い心を我が身に開く、バカにされようが差別されようが、にっこり笑って救っていく。

歴劫修行の成仏観、五障の説も竜女の即身成仏の現証で見事に破折される。

「人の不成仏はわが不成仏、人の成仏はわが成仏」(P、401一代聖教大意)

かけがえのない自分の身命を捧げる、つまり帰命、南無する事、信心です。

小乗仏教では、当時インド社会の差別主義に影響を受けて女性と在家に対するあからさまな差別が行われるようになった。

“絶えず原点に帰れ、創始者の精神に帰れ”

宗教と云っても所詮は人です、人で決まる

一箇の人間に提婆と竜女の両面が。提婆は心の成仏(善悪)竜女は身の成仏を顕わす。(P、1556上野殿御返事)

提婆は煩悩即菩提、竜女は生死即涅槃を顕わすなり。(P、746御義口伝上)

日蓮大聖人は一個の人間としての御自身をぎりぎりまで見つめられ

「日蓮今生には~心こそすこし法華経を信じるようなれども、身は人身に似て畜身なり ~ 心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐ろしと思わず」(P、958佐渡御書)

・勧持品 第十三

「弟子が師子吼」弟子が三類の強敵と戦う ~ 弟子の誓い

死身弘法の魂(創価学会の精神)

娑婆世界の衆生は欠点だらけで、慢心を懐き徳が薄くて、怒りっぽく、心がひねくれ曲がっている。

1、俗衆増上慢~権威に寄りかかって正法に敵対してしまう(権威への盲従)

2、道門増上慢 ~ 自分より優れた人と法を、素直に尊敬できない「慢心」

3、僭聖増上慢 ~ 民衆への蔑視(法華経の正反対で敵役)

ともあれ、悪は結託し連合軍になる。分け前を得るために団結の姿を示す。

人を嘲笑する言葉として使い人を見下す。僭聖増上慢の正体は、自惚れが強く「自己愛」ナルシシズム(自己陶酔)自分を人間以上のものに見せかける。そして「民衆との距離」を置く。

「悪の心理」 ~ 天使になろうとする者は、獣に似てくる(パスカル)

大切なのは、信心です。正しい信心を教えてくれる人です。信心も修行もなく権威だけを振り回す僧侶、偽善者ら。偉ぶらずそして民衆の中で苦楽を共にしていく。難を受け難と戦ってこそ自身の元品の無明を断ち切れる、それ以外に真の成仏は有りません。

*戸田先生の指導

「世間から信頼される学者、および評論家、文学者、一流の日刊新聞の論説などが、その利益および感情等と結んで下種仏法とその広宣流布への活動に強く攻撃を加えるときが現れるとすれば第三類の強敵出現と断ずることができるであろう」と。

*現代における聖なるもの

  • 技術、科学面における進歩の必然性への信仰
  • ナショナリズム(国家主義)
  • 共産主義

これら三つが行きづまりをみせている。だから新しい宗教が必要(トインビーとの対談)僭聖の正体を民衆に暴くことが大事なのです。殉教こそ宗教の生命(勧持品の肝要)大聖人、牧口、戸田先生がそうであられた

・安楽行品 第十四  「人類を絶対の安楽」の境涯へ

「難来るを以て、安楽と意得可きなり」

大聖人様の安楽行品は「困ったら、御本尊様に南無妙法蓮華経といえ」

“ありのままの自分”見かけは信心しているようでも心は餓鬼界、其の人の生命が「何界」かを見るのが仏法。

大難と戦って、生命を鍛えに鍛えて屹然たる自分を作り上げる事だ。そこにこそ安楽がある。牧口先生は、人道的競争の時代が到来すると予見された。

・従地涌出品 第十五①「動執生疑」~境涯革命への大いなる轟

勇者の総立ちで時代に動執生疑を ~ 弥勒の質問

地涌の出現が人々に“仏陀観の大転換”を迫った。

既成の価値観を揺るがす運動、本門に入ってそれまでの教えを根底から覆す。

宗教の正邪をめぐって対話するという精神的土壌がない国土です。

“長いものには巻かれろ”白黒つける事を嫌い、曖昧にする、正邪をはっきり言う学会の信念に反発するのは当然。

・現代ほど人間が「何のため」を忘れ、小さな存在に貶めてしまっている。

巨大なシステム(制度や機構)の中で自分の力などたかが知れている。

自分一人が何かしたところで、世の中が変わるわけがない。うまく社会に適応して生きていくのが精一杯だ。こうした無力感が人々の心を覆っている。

「仏と融合する境涯」「宇宙との一体感を味わう境涯」を我が身に体現して登場したのが“地涌の菩薩”ではないだろうか。

「断じて嘆くな!!大悪があるからこそ大善が来るのだ。」

・従地涌出品 第十五②  「蓮華の文化史」を語る

生命の法を蓮華が象徴、東西文化を結ぶ「蓮華の道」

「如蓮華在水」自分が蓮華になれば煩悩の汚泥も即幸福の菩提にして生ける。

・従地涌出品 第十五③

我地涌の菩薩なり ~ 「永遠の自己」の発見

大聖人は虚空会の舞台を用いて御自身の永遠の自己自身を御本尊として顕わされた。

戸田先生の「獄中の悟達」も折伏戦の棟梁としての永遠の自己自身をつかまれたと考えられる。これが虚空会の体験ではなかろうか。

地涌とは、民衆の「内発の力」を開拓

権威も鎧もない学歴の盾もない、財力や地位の剣もない。ただ我が生命の本然の力を出して戦う以外になかった。上からの権威などで、これほど多くの民衆が長く生き生きと動くわけがない。

これが“地涌の義”そのものの姿なのです。

魔は狩り出し、叩きだして打ち破るものです。

娑婆世界の衆生の心は、煩悩、業で顚倒している。本来は「妙法根本」です。それが「エゴ根本」に顚倒していて仏界という永遠の生命がしみ通ってくるのを邪魔しているのです。

法華経は一切衆生の己心のドラマ。「人間革命」の大闘争は、生命の夜明け。人間の解放にあるのです。

以上 要旨記述 2015/10/30

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