*価値について(三段階の発達)
- 1,模倣的信仰的生活 ; 他人の価値観に盲目的に従う生活態度
- 2,経験的独断的生活 ; 自分の価値観を絶対視して威張る生活態度
- 3,科学的合理的生活 ; 誰もが納得するロゴスを重んじる生活態度
*信仰の形態について
- 1,依人的信仰 ; 文証、伝説を信じる
- 2,独断、懐疑的信仰
- 3,依法的信仰 ; 文証、現証、道理に従う
*原理主義とは
現状を認めないで、頭の中で「こうあるべきだ」とだけを考える。
「絶対反対」と「こうあるべき」という原理を先に唱えるだけで、今の現実をどうやっていくかを後回しにしている。
*言論の自由とは
自分の意見を主張する権利であり、異論を遮ったり恫喝によって黙らせたりする事も含まれる、(そう理解している人がたいへん多いので残念である)そういう意味ではない。
“自説の理非の判定をこの場に託す”と誓言することで理非正否を判定する公共的な場が立ち上がるのである。
“存在するもの”ではなく、その都度“作りだすもの”である。(理非正否を判定する場の信任である)大事なことは「命題」の真理性ではない。
彼が望むのは、教化する自由、自説を宣布する自由、自説に反対するものを黙らせる自由だけである。
*「世の中が住みやすくなる」という事
「真理だけを語る」少数の人間を優遇するよりも、圧倒的多数の「間違った事を語る」人間に、「自分の間違いを自覚させる」制度を整備する方が
「人類という種」のトータル勘定では差し引き帳尻が合うという事。
又、自説の正しさを確信する人間は、説明を好まない。(一方的に押し付ける)
一方で「説明を試みる人間」は、何とか解かって貰おうと努力する。(聴き手の判断力に敬意を抱く)ここに「対話のあり方」が重要視されるのである。
*繊細な精神
複雑で矛盾だらけの人間という存在者。
はたして人間が生きている事が良い事なのだろうか。
型通りになる傾向に対して過敏なほど警戒すること。
例えば東日本大震災の折、東電の社長や首相に対しては罵倒、雑言を浴びせ、片や天皇、皇后に対しては微塵も批判しない。そういう人々とメディアとの共謀構造に対して疑問を呈する態度。
お年寄りや障害者など弱者の立場を忘れないように必死に配慮しながら、そこに透けて見える保身的、功利的態度に対する違和感を大切にする心。
“なぜ?”という問いの欠如 ~すべてに答えはないかもしれない“なぜ?”
*人生とは比べるものじゃない
一本の道を誰かと比べることなく生き切ることです。
誰かの人生を参考にすることは別にいいし、影響をうける事だっていい。でも比べ過ぎてはだめなのです。
*なぜ生きているのか?
それは物語を生むため、物語を発生させる為に生きているようだ。しかも生物が他の無機質より不安定でありやがて死ななければならないのはどうしてなのか。恐らくそこには多様性を発生させるためなのではないだろうか。
以上 2019/05/09
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