日蓮と佐渡

日蓮と佐渡 一般書籍

第1章、佐渡配流

・国津・松ケ崎(国府の瀬)港・舟付場

垣ノ内=百姓の集落 ~ 在家 ~ 名主 「一堂一社七かまど」

渡辺という姓は、中世にあっては渡部(水運業者)であった。

・松ヶ崎の人々の信仰と生活 ~ 松崎明神・十二権現(むじなの神)

・日蓮の歩いた道筋

松崎を発ってその日のうちに、守護所(波多)に入った。

本間六郎左衛門重連の館の後ろのほうにある塚原三味堂

第2章、塚原配所考

承久の乱を挟んで、国府と守護所とは密接な関係にあった。

鎌倉幕府の支配力が劇的に強大になった。

「条理水田開発」と「街道改修」 ~ 国仲平野に残る

・港と後背地の開発と発展

真野湾は、物資輸送に適していたが海流の変化が激しく、しばしば足止めにあうため、人の輸送には松崎が多く使われた。

当時の佐渡の駅(港);松崎・三川・雑田(さわた)

*水運業者の渡部氏の在家(垣ノ内)が佐和田町の石田や畑野町の寺田、目黒町、金井町の新保、水渡田など国府川やその支流に分布していたのは単なる偶然ではなく、水運業者が多数存在していたことを示している。

・大仏北条家と佐渡

承久の乱の後、佐渡は没官領となり大仏北条宣時の領地となり、本間氏藍原氏らが佐渡の郷や村の代官職に任命されていった。

・重連の館を巡る諸説の中で、日蓮を預かったということは佐渡守護代の地位にあったと考えられる。

第3章、阿仏房

・北国佐渡の荒んだ人心“人の心は禽獣の如し”「主・師・親」を知らず

「塚原の三昧堂」は目黒町から寺田の共同墓地の間にあった。(熊野神社)

「一谷配所」;石田の郷一谷 ~ 扱いは冷酷であった

守護(北条宣時)~ 守護代(本間重連)・石田郷地頭代・名主・宿

*阿仏房は目黒町の「在家」として存在。金井町新保(元屋敷)から追放

されたが「在家」として「一堂一社七かまど」の存在は保障されていた。

(日蓮の面倒を見たことで住まいを追われ科料に処せられ家をとられたりする境遇に置かれたが)城之内を真ん中に西端に「熊野権現」南を日蓮宗「妙満寺」東を「釈迦堂沢」を配する。

・法論対決

唯阿弥陀仏・生喩房・印姓房・慈道房らとの法論対決

・「阿仏房御書」

“末法に入りて、法華経を持つ男女の姿より外には宝塔なきなり~地水火風空の五大なり、この五大は題目の五字也~然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり”

身延へ5年の間に3回も日蓮を慕ってご供養を届けている。その背景には千日尼の厚き信心への思いがあった。(女人成仏の鏡)

・承久の乱の後権力者の交代に伴い武蔵方面からの武士団が乗り込んだ。

大部分の荘園が北条氏の知行国となったが、佐渡に於いては、在家、名主たちが日蓮に帰依した。

・「阿仏房妙宣寺」 ~ 藤九郎守綱(阿仏房の子息)の造営説

遠藤為守(順徳上皇に随行の武士)=(阿仏房説は不自然なり)

多分、竹田の本間氏の城跡に阿仏房が移ったとき在地の商人、柳屋遠藤氏の応援により日蓮に関する遺物(資料)が集められたのであろう。(妙宣寺の檀家衆には遠藤氏と渡部氏が多い)

一谷入道(名主ではない)宿の入道として夫婦して日蓮に暖かい心づかい

塚原の配所から5~6キロの一谷(佐和田町市野沢)

・本間重連の館と新穂との関係

新穂城は「土豪」の館であり「守護所」ではない。北方城は「村殿」一町六反歩)と呼ばれ青木村、竹井村など近隣の村に幾つも例がある。

・「新穂城=守護所」説

塚原の「根本寺」近くにある新穂城が本間重連の館として浮上するのは、館のほど近くに阿仏房が徒歩で食事を運べる範囲に日蓮の配所があった。ということは、館は熊野神社跡ということになるのではないか。

しかも日蓮の遺跡は波多の郷に集中、それに反して雑太付近には全くない

「妙宣寺」や「世尊寺」(国府入道跡)何れも他所から移転してきたもの

第4章、一谷入道(宿の入道)

預りたる「名主」近藤氏と「宿の入道」は別の存在

*法論対決後の日蓮迫害への対処と映る。

第5章、国府入道

・食事を日蓮のもとに送っていた。国府尼と千日尼の二人の近しい間柄と信仰心。阿仏房と国府入道の二人して身延へ発とうとしていた信仰心は見事

・法久山世尊時(真野町竹田)駿州富士本門寺の末寺、開基は日貞上人

俗名、藤四郎盛国といい順徳院に仕へ崩御の後禅門して国府入道という。

阿仏房と近い距離に彼の「在家」があった。

第6章、中興入道(中興の次郎入道)

・子息夫婦も日蓮に帰依し、日蓮を擁護した。関係する「四つの寺」

  • 一谷に在り、日蓮の配所とする「妙照寺」
    • この井戸のところに在った旧法華堂に起源をもつと云われる「妙経寺」(佐田町中原)
    • 日蓮直筆の曼荼羅が伝えられたとの寺伝を持つ「西蓮寺」(浄土真宗)
    • 日興の曼荼羅を持ち伝える法教山「本光寺」

第7章、赦免、そして鎌倉へ

・中尾堯氏 ~ 「安隆寺」(日蓮宗)三十番神の石塔

二月騒動で弟子たちが許された。(佐渡方面では、日興たちの教団が発展していた)日朗渡来の伝説は作り事なのか。

“三月十三日に松崎を出港して、真浦の津で一時避難のために下船した。

同二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ“~「種々御振舞御書」

第八章、「聖地」の形成

・本行寺と仏寿坊;松ケ崎(畑野町)松崎山本行寺~日興の曼荼羅二体あり

菊地喜右衛門(廻船問屋)~ 国仲平野北西部の檀家たち。

根本寺の成立 ~ 弘樹寺との争い(塚原配所説)との矛盾

・妙覚寺(京都)の日典の佐渡渡来 ~ 上杉景勝が佐渡攻めを行ない、

当時直江兼続がその時の頭目であった。

妙満寺(畑野町目黒町)「阿仏房の子息藤九郎」の跡

・東光山妙法寺(両津市湊)~ (町人)中村氏の寄進

結び、日蓮と佐渡の国人

承久の乱は佐渡の社会を大きく変えた。(末法到来の姿と映る)

地頭代職が関東、相模、武蔵の武士に与えられ、大仏北条宣時の守護国となりその後、法本房行空(法然の弟子)により「念仏王国」と化した。

以上