人新世の「資本論」

人新世_資本論 一般書籍

斎藤幸平 著

はじめに 「SDGsは「大衆のアヘンである」!

・かって、マルクスは資本主義が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」「大衆のアヘン」だと批判した。

・「持続可能な開発目標」SDGsなら環境を変えていけるだろうか。

いや、それはやはりうまくいかないだろう気候変動はもう止められないので目下の危機から目を背けさせる効果しかないのではないか。

ところで、温暖化対策としてあなたは何かしているだろうか。

対策をしていると思い込むその善意だけでは、有害でさえあるという。

「気候変動、コロナ禍、文明崩壊の危機」

人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=「環境危機の時代」

気候変動を放置すれば[中尾1] 、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などあり得るのか。いや、解決策はある。ヒントは、晩期マルクスの思想の中に眠っていた。「唯一の解決策は潤沢な脱成長経済だ」

産業革命以前は280ppmであった大気中の二酸化炭素濃度が2016年には、南極でも400ppmを超えてしまった。これは400万年「鮮新世」ぶりの事だという。平均気温は現在よりも2~3℃高く南極の氷は融解し海面は6mも高かったという。

・本書はそのマルクスの「資本論」を参照しながら「人新世」における「資本と社会と自然」の絡み合いを分析していく。

  • 気候変動と帝国的生活様式

ノーベル経済学賞の罪(2018年ノード・ハウスの受賞)

気候変動の経済学分野での受賞~1991年発表の論文への批判

経済成長と新技術があれば、現在水準の自然環境を将来世代のために残しておく必要はないと主張した。(彼のモデルでは3.5 炭素税導入を提唱)

ところが、2016年パリ協定の目標は、2100年までの気温上昇を産業革命以前と比較して2℃未満(1.5℃未満)に抑え込むことであった。

この数値目標にしたところで口先の約束に過ぎない。

アフリカ、アジアの人々に被害が及ぼうとも、世界のGDPに占める農業の割合はわずか4%でしかないとした。この程度ならばいいではないか。

(希少性や限界の下で、最適な配分を計算するのは経済学の得意分野である。)

やはり各国政府は経済成長を最優先にして、問題を先送りしてきた。

SDGs対策がメデイアで盛んに取り上げられている裏で、二酸化炭素排出量が毎年増え続けているのは何ら不思議ではない。

本質はうやむやにされ「人新世」の気候危機は深まっていく。すでに1℃の上昇が生じている中で1.5℃未満に抑え込むためには、具体的には2030年まで半減させ2050年までゼロにもっていかねばならないところまで来ていて今すぐにでも行動すべきである。

・大加速時代 ~ 資本主義システムへの挑戦(大きな変化)

産業革命以降特に第二次大戦以後の経済成長とそれに伴う環境負荷の飛躍的増大を大加速時代と呼ばれている。その加速が冷戦崩壊後もさらに強まって現在に至ってグローバル化してきているこんな時代が持続可能なはずがない。

資本主義のグローバル化と環境危機の関係性をしっかりと理解することだ。

グローバル・サウス《被害領域とその住民》で繰り返される「人災」

先進国の豊かさの裏側で、資本主義の矛盾が露出してきている。

大きな事件例として、イギリスBP社によるメキシコ湾原油流出事故、

アマゾン熱帯雨林火災、商船三井の貨物船モーリシャス沖重油流出事故、

ブラジル、ブルマジーニョ尾鉱ダム決壊事故

犠牲に基ずく帝国的生活様式(大量生産・大量消費型社会)

グローバルサウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに豊かな生活は不可能である。グローバル資本主義の構造的な理由から、代償を遠くに転嫁して不可視化し、犠牲をも不可視化する外部化社会。

労働者も地球環境も搾取の対象~資本主義は「中核」と「周辺」で構成

周辺部からの廉価な労働力とその生産物を買い叩くことで、中核部は大きな利潤をあげてきた。そうしたプロセスが限界に達してきている。それが労働力だけでなく資源、エネルギー、食糧、自然までが単なる掠奪の対象

外部化される環境負荷

例;パーム油の生産過程(インドネシア・マレーシア)

森林破壊により住民はタンパク源である川魚が捕れなくなり絶滅危惧種(オランウータン・虎)の違法取引に手を染めてきた。人々は無知を装い真実を直視することを恐れる。「知らないから知りたくないに変わっていく」

不公正の原因を知っていながら現在の秩序の維持を暗に欲している。

資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。その最たる例が気候変動だろう。(マルクス・ガブリエル)

グレタ・トウーンベリ(環境活動家)~2018年(15歳高校生)

COP24(国連気候変動枠組条約締約国会議)において、政治家たちの人気取りのため「恒久的な経済成長の事しか語らない」と批判。目先の事だけを考えて貴重なチャンスを無駄にした大人たちの無責任さに対する怒り。

マルクスによる環境危機の予言

資本主義による収奪と負荷の外部化転換~この試みは最終的には破綻する。

*三種類の転嫁

1、技術的転嫁(生態系の攪乱)~ 「掠奪農業」

「ハーバー・ボッシュ法」によるアンモニアの工業的製法で肥料の大量生産

本来の土壌養分の代わりを別の資源の浪費で賄う。その上、地下水の汚染、冨栄養化による「赤潮」被害などの問題を引き起こしている。(土壌疲弊)

土壌の保水力低下、野菜、動物の疫病などとの関連、化学肥料、農薬、抗生物質などが必要不可欠になっていく。

2、空間的転嫁(外部化と生態学的帝国主義)

化学肥料に頼らない代替肥料(グアノ)~ 南米ペルー沖の海鳥の糞グアノの急激な枯渇(生態学的)

3、時間的転嫁大洪水よ我が亡きあとに来たれ

将来を犠牲にすることで、現世代は繁栄できる。森林伐採、化石燃料の大量消費が気候変動を引き起こす

南米チリでのアポカド栽培(森のバター)~大量の水の使用で生活用水の確保が犠牲になり、他の果物栽培にも支障をきたす。資本主義が崩壊する前に、地球そのものが人類の住めない場所になってしまう。地球は一つしかなくすべては繋がっている。環境難民問題がそれだ。

「気候ファシズム」とでも呼ぶべき権威主義的リーダーの統治することになる。

しかし、大分岐時代の到来という好機でもあるはずで、これまでのような資本蓄積は出来なくなり、環境危機はもっと深刻化していくだろう。これらは資本主義システムの崩壊か別の安定した社会システムに置き換えられるかの分岐が始まっていることなのではないのか。世の混乱からの「野蛮」を防ぐにはどう対処したらいいのか。

  • 気候ケインズ主義の限界

グリーン・ニューディールという希望?~トーマス・フリードマンらの提唱

再生可能なエネルギーや電気自動車への財政出動、公共投資を積極的に行う。

かっての20世紀大恐慌から資本主義を救ったニューデイル政策の再来。

「緑の経済成長」というビジネスチャンス(グリーン革命と呼ぶ)

SDGsが最後の砦の旗印 ~ 国連、世界銀行、IMF、OECD

太陽光パネル、電気自動車、急速充電器、バイオマスエネルギー、既存の社会インフラを丸ごと転換するという大型投資が必要だとする主張も正しい。

だが、果たして地球の限界と相容れられるのかどうか。

限界の線引き(九項目)

  • 気候変動 ②生物多様性の損失 ③窒素、リン循環 ④土地利用の変化

⑤海洋の酸性化 ⑥淡水消費量の増大 ⑦オゾン層の破壊 ⑧大気エアロゾルの負荷 ⑨化学物質による汚染

成長しながら二酸化炭素排出量を削減できるのか4項目はすでに超えている。

「緑の経済成長という現実逃避」という自己批判(2019年ロックストローム)

経済成長か、気温上昇1.5℃未満の目標か、どちらか一方しか選択できないとする絶対量で減らす必要性を強調。 ~ 電気自動車の普及、飛行機を使わずテレビ会議(オンライン)火力発電から太陽光など

市場に任せたままでの10もの急速な排出量削減は無理。

《経済成長の罠・生産性の罠》資本主義の下では、とても受け入れられぬ。

世界的に見た場合、新興国の著しい経済成長に排出量は増え続けている。

先進国での、見かけ上の減少だけに注目するのは誤りだ。何故ならば、中国、ブラジル、インドで採掘される資源や生産される商品は先進国で消費される。

再生可能エネルギーそのものが化石燃料の代替品として消費されているのではなく、経済成長によるエネルギー需要を補う形で消費されているのだ。

新技術の開発で効率化された商品が安く手に入ることで消費は増加しそれに伴い電力消費も増加する。例えばテレビの省エネ化は大型テレビへの移行、自動車燃費の向上も大型車普及で無意味となる。

市場メカニズムによる「化石燃料文明の崩壊」を唱えているが、現実はどうなのか。売り物にならなくなる前に最後のあがきとして堀り尽くすだろう。

これは大変危険であり致命的な過ちとなる。大量生産大量消費を抜本的に見直す時だ。世界富裕層トップ10が地球上の二酸化炭素の半分を排出しているという。なお、プライベートジェット、スポーツカー、大豪邸を幾つも所有するという0.1%のトップら、又先進国に暮らす私たちがトップ20に所属するという事実。

・スマホ、ノートパソコン、電気自動車には不可欠とされるリチュウムイオン電池、レアメタルが大量に使用されている。産出国チリでは地下水の吸い上げで住民の淡水量の減少が大きな問題になってきている。コバルトの採掘にも劣悪な労働条件が繰り返されている。

「循環型社会」自国では緑を謳うが周辺部からの掠奪は中核部の環境保護のための条件となってしまっている。

「脱物質化社会」という神話

「継続的な物質的成長は不可能である。脱物質化(より少ない資源でより多くの事を行なうことを受け合うが)~も、この制約を取り除くことは出来ない)

I・O・T(モノのインターネット)

情報経済、クラウド化、認知資本主義も脱物質化やデカップリングからは程遠

気候変動の阻止、緩和ではなく3上昇した世界へ適応する事とする作戦はNETや原発とセットになるだろう。だがそのような適応とは気候変動はもう止められないということを前提にしている。しかし可能性への挑戦を諦めるには少し早すぎはしないか。やれることは全力ですべてやるべきではないか。

生活規模を70年代後半のレベルまで落とし、いかにも善意に基づいた聞こえの好い緑の経済成長という政策に固執せずに最悪の事態を避けるためには脱成長という選択肢は手放せない。問題はどのような脱成長を目指すべきなのかである。

  • 資本主義システムでの脱成長を撃つ

経済成長から脱成長へ

ドーナツ経済(社会的土台と環境的な土台)公正な資源配分が恒常的に達成できるかどうかをもっと真剣に考えなければならない。

現在飢餓で苦しんでいる10億の民はどうなってもいいと立場を取るのであれば別だが、そうでない私たちは、先進国の経済成長を諦めるべきではないか。

四つの未来の選択肢

  • 気候ファシズム(現状維持)野蛮状態(叛乱)気候毛沢東主義(独裁国家)

一体、後どのくらい経済成長すれば、豊かになるのだろうか。

痛みを伴う政策や量的緩和を行ないながら労働分配率は低下し格差は拡大傾向のままではないか。

資本主義を批判するZ世代の若者たち

1,990年代から2000年代に生まれた「Z世代」は、デジタル、ネイテイブでテクノロジーを自由に世界の仲間と繋がっている。グローバル市民としての自覚を持って、今社会を変えようとしている。

取り残される、日本の政治

社会主義的(共産化)経済ではない、「自由」対「平等」といった二項対立をすでに超えている。市場経済、私利の追求を否定しない。

この経済競争、成長の中で無理に成長を加速させる通貨当局が過剰に流動性を供給すれば金融市場は不安定化し、バブルとその崩壊をもたらすであろう。

賃労働や私的所有、市場の利潤獲得に変更を迫る必要はないとする。

脱成長の意味を問い直す

量から質への転換(成長から発展)格差の収縮、社会保障の拡充、余暇の増大を重視する経済モデルに転換しようという一大計画。

命が脅かされる競争社会で相互扶助は困難である。本気で平等を目指すなら階級や貨幣市場といった問題に切り込まなくてはならない。

本書が目指す「X」は脱成長資本主義ではない。労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え自由平等で公平かつ持続可能な社会を打ち立てることこそが新世代の脱成長論ではないだろうか。中途半端な解決策で対策を先延ばしする猶予はもうないのだ。

第四章、「人新世」のマルクス

<コモン>という第3の道

水や電力、住居、医療、教育を公共財として、自分たちの手で民主的に管理

自然環境(水や土壌)・社会的インフラ(電力、交通機関)・社会制度(教育、医療)これらを共通財産として管理運営 ~(国家や市場基準に任せず)

これらの<コモン>の領域を拡張していくことである。

地球を<コモン>として管理する

「地球と労働」の協業によって生産された生産手段そのものを<コモン>として占有することを基礎とする個人的所有を作り出すのである。

地球と生産手段を資本家から取り戻す(資本家の下で働かなくてもよい)

資本家による独占事業を解体する。労組、協同組合、労働者政党これらのほとんどが政府ではなく下からの社会的諸制度として、徐々に形成していく革命(福祉国家)であり、資本の商品化から取り戻す新しい道として地球を持続可能な<コモン>とする新しい革命ともいえよう。一般的イメージとは全く異なる新しい資本論ともいえようか。

古代文明の崩壊をもたらした共通の原因

メソポタミア、エジプト、ギリシャに於ける自然の乱開発(過剰な森林伐採)で肥沃な土地を失い、土着農業が困難となり衰退。

マルクスは、「共産党宣言」「生産力至上主義(ヨーロッパ中心主義)」から「史的唯物論、物質代謝論」の誕生を生み、やがて「掠奪農業批判」を浴びる中に、エコロジー研究の深化へと移り過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅などを資本主義の矛盾として扱うようになっていった。

当初、マルクスは生産力の増大を歴史の原動力と見做し西欧諸国の資本主義を目指してヨーロッパ中心主義へと移行。ところが、後に自らのオリエンタリズムを深く反省し(非西欧)インド、ポーランド、アメリカの南北戦争などを通し反植民地主義の立場に立っていた。

マルク共同体;ゲルマン民族の平等主義

土地の共同所有、生産方法への強い規制(土地養分の循環を維持)を敷き肥沃な土地の恩恵が一部の人間が独占出来ないように注意し、時にはくじ引きを導入入替するというような事もしていた。これらは、古代ローマにおける貴族社会の土地所有経営(奴隷労働)とは対照的な規制方法であった。

新しいコミニュズムの基礎;持続可能と社会的平等

自然科学と「共同体社会」を研究する中でマルクスが目指したことは、植民地主義支配への抵抗力とする定常型経済に肯定的な認識をもたらす事であった。

「共同体」の存在は単に無知であったのではなく、権力が支配従属関係へと転化することを防ごうとしていたのである。

ソ連のような生産力至上主義型共産主義は無効になる。

「ゴータ綱領批判」

貨幣や私有財産を目指す個人主義的生産から「共同的富」を共同で管理する生産に代わる<コモン>思想の誕生

マルクスの遺言

未完の資本論を「脱成長コミニュズム」として理論化して引き継ぐような大胆な解釈に挑まなくてはならない。

第五章、「加速主義」という現実逃避

「人新世の資本論」に向けて

加速主義とは、持続可能な経済成長が可能になると主張する事だが環境保全運動(有機栽培、スローフード、地産地消、菜食主義)はローカルな小規模運動に留まざるを得ず、絶えず粉砕の標的にされてきた。資本の「包摂」によって無力になる私たち。その私たちは資本主義なしには、生きられないと無意識のうちに感じている。商品の媒介なしには生きられない。自然と共に生きるための「技術」を失って「商品」と「貨幣」の力に頼る毎日を送っている。

構想と実行が分離され職人は没落する。そうなれば意思決定権は一握りの専門家と政治家だけになる。一部の人間が有利になるような解決策が一方的に上から導入されてしまう可能性が高くなる。負荷が外部に転化され物質代謝の亀裂は深まるというお決まりのストーリーが始まるだけだ。・

アンドレ・ゴルツの技術論

専門家に任せるだけの生産至上主義は民主主義の否定となり、政治と近代の否定となる。開放型技術と閉鎖的技術の区別が重要となる。

「原発」は、民主的管理が出来ないので閉鎖的技術の代表である。

ジオエンジニアリングやNETという技術の下では、私たちは今まで通り化石燃料に頼る生活を続けることになる。想像力を取り戻すためには生活そのものを変え新しい潤沢さを見出すべきである。

世界で最も裕福な資本家26の総資産が貧困国38億人(世界人口の約半分)の総資産と同額であるという信じられないような報告もある。

第六章、欠乏の資本主義、潤沢なコミニュズム 

典型例が「土地」の欠乏

16世紀と18世紀にイングランドで利潤獲得のために当時共同管理されていた農地から「囲い込み」エンクロージャーという農民締め出しを行なった。

土地は、根源的な生産手段であり、個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく社会全体で管理するものだ。土地を追われた人々は活きるために自分の「労力」を売る事で「貨幣」を得、市場で購買しなければならなくなった。

これが資本主義におけるあらゆるものを市場で売買できる社会制度である。

・「水力」というコモンから独占的な化石資本へ

無償のエネルギー源(河川)~(飲み水や魚だけではない)

水車から蒸気機関~河川から都市部への工場移動これにより人が集まり労働者たちと生産を組織化した。その結果水力は脇に追いやられ、石炭が主力の街は大気汚染が進む中で労働者たちは死ぬまで働かされるようになった。

生産力は上昇したが、二酸化炭素は増加の一途をたどっていったのだ。

・「私財」が「公富」を減らしていく

他人を犠牲にして私腹を肥やすような行為が正当化される世の中、是こそが資本主義の本質だ。水をペットボトルに詰めて売る。商品化することで価格をつけて儲けられる。たばこやワインも生産量を調整(多すぎる場合は減らす)して希少性を作り出す。過剰供給は価格の低下を招くため、わざと破棄される。

・「価値」と「使用価値」の対立

マルクスの云う「富」とは「使用価値」の事を云う。水や空気など人々の欲求を満たすものである。財産は商品として貨幣で測られ、市場経済においてしか存在しない。水道事業も民営化されると企業のためにシステム維持の最低限必要な分を超えて料金が値上げされる。本来無償であったものがである。価格をつけることで水そのものが資本として取り扱われることになる。運営企業は供給量を意図的に増減できるので商品化することで有償財に転化する。

コモンズとは万人にとっての使用価値のことである。コモンズの解体による人工的希少価値の創造こそが本源的蓄積」使用価値を犠牲にした希少価値の増大が「私富」を増やす

負債という権力

最たる例が住宅ローン。ブランドと広告が生む相対的希少性。無限の消費を駆り立てる。マーケテイング産業は、食糧とエネルギーに次いで世界第三位の産業と云われている。

コモンの市民営化(開放型技術)電力の管理(市民電力、エネルギー協同組合)

営利目的ではなく、小規模の民主的管理に適したネットワーク

ワーカーズ・コープ(生産手段をコモン化)

労働者協同組合(労働者たちが共同出資して連携し、生産手段を共同所有し管理運営する組織。介護、保育、林業、農業、清掃分野、教育、医療、インターネット、シヱアリングエコノミーなど、消費物質主義から決別した「ラジカルな潤沢さ」水は地方自治体、電力、農地は市民が管理できる。IT技術で「共同」プラットホームを構築する。これらにより、GDPは減少し脱成長するだろうが生活が貧しくなることを意味しない。むしろ貨幣に依存しないで労働へのプレッシャーから解放されていく。又、安定した生活を獲得することで、相互扶助への余力が生まれ活動が広まるだろう。

今までの私たちは経済成長の恩恵を求めて一生懸命に働き過ぎた。これは資本にとっては非常に都合のいいことであった。

だが全員が豊かになることは不可能であることと無駄な労働が多かった。

・脱成長は清貧思想として批判されてきたが環境維持のために皆が貧相な生活を耐え忍ばねばならないのか。「緊縮」は脱成長を不要にするために希少性を求めるとともに潤沢さをも求める。

・「良い自由と悪い自由」

アメリカ型資本主義の価値観(環境負荷の高いライフスタイル)を自由とし

てきた新自由主義には「NO」と叫びたい。

自然科学が教えてくれない自由の国とはどのような社会なのか。

二酸化炭素の大気中濃度を450ppm以下に抑えないと安定化(2℃)出来ないと云うことは出来るが、未来のための自己抑制が難題なのだ。

この自己抑制を自発的に選択すれば、資本主義に抗する革命的行為になる。

第七章、脱成長コミュニズムが世界を救う

コロナ禍も人新世の産物

自然の複雑な生態系と異なり人の手で切り開かれた空間とりわけ現代のモノカルチャーが占める空間では、ウイルスを抑え込むことは出来ない。

その対策は人命か経済かというジレンマに直面することで問題への取り組みは先延ばしされる。

だが、対策の遅れはより大きな損失を生み人命さえ危ぶまれることになる。

商品化によって進む国家への依存

1980年代以降、新自由経済は相互扶助の関係性を貨幣商品の関係に置き換え国家に救いを求めるという不安が深まり国家介入なしには生活が立ちいかなくなると考えた。

自治管理、共同管理の重要性(ピケテイ理論)

労働と生産の変革に重点を置く。旧来の共産主義を私的所有の廃止と国有化と捉える誤解が多いがこれらは根本問題ではない。尚旧来の脱成長派の考え方は消費の次元での自発的抑制に焦点を当てがちで、節水、節電、肉食をやめ、中古品を買い、シエアーするというふうに所有、再分配等の価値観の変化に注目し、労働の在り方を変えることを重視してこなかったようだ。これでは資本主義には立ち向かえないだろう。現在の気候変動の将来予測が非現実的になってしまうのは、巨大さのせいでもある。自分一人の力では何も変えられないという悲観的心情ともとれる。

デトロイトに蒔かれた小さな種

かってのアメリカ自動車産業の中心地デトロイトの衰退による失業者の増加。

治安悪化、荒廃した街、残された住民たちは地価の低下の進む中で都市再生の道を「都市農業」(有機農業)の取り組みを一から始めた。

デンマークのコペンハーゲンでは2019年「公共の果樹」を植え市民へ無償で提供することで今まで考えもつかなかった未来が生ずるのではないかという想像力が広がりつつある。このように社会運動なしには国家の制度を揺るがすほどのものを市民社会から生み出すことは出来ない。人間と自然は労働を通して繋がっている。したがって労働の形を変えることが重要となる。

五つの構想(脱成長コミュニズムの柱)~ 加速主義ではなく減速主義

1、使用価値経済への転換 2、労働時間の短縮 3、画一的な分業の廃止

4、生産過程の民主化 5、エッセンシャルワークの重視

ブルシット(くだらない仕事)対 エッセンシャルワーク(使用価値の高い仕事)

マーケッテイング、広告、コンサルティング、金融保険業などは高給の為、人は集まるが果たして世のためにはどれほど有用だろうか。反面ケアー産業の実体は、低給だけど社会的には有用視されている。昨今の実情は保育士、教員、介護ストが目立ってきた。コンビニの24時間営業の是非、高速道のサービスエリアでのスト等相互扶助の強化か分断の深化かの分かれ道

第八章、「気候正義」という梃子

・恐れ知らずの都市バルセロナでの「気候非常事態宣言」

飛行機の近距離路線の廃止、市街地での自動車走行速度30キロ制限

さまざまな運動が気候変動問題を媒介にして連携し、バルセロナ発のフイアレス・シテイのネットワークはアフリカ、南米、アジアまで広がり77の拠点を形成している。

新しい啓蒙主義の無力さ

世界市民というコスモポリタン理念としての啓蒙主義を擁護するだけでは不十分、残酷な現実を前に抽象的理念を対置しても虚しく響くだけである。

食料主権を取り戻す

南アフリカ、(新興国BRICSの一角)で「息が出来ない」のスローガンを掲げ、アメリカルイジアナ州レイクチャールズの石油化学工業サソール社への操業停止を要求。「サンライズ・ムーブメント」「未来のための金曜日」「ブラック・ライブズ・マター」

「誰も取り残されない」という気候正義の目標グローバルサウスから学ぶ姿勢

国家資本主義的ソ連型の官僚国営企業政策の転換をさらにもう一歩進んだシステムへの転換を目指す必要がある。経済、政治、環境の三位一体の刷新)

働くことの意味、生きることの意味、自由平等の意味、持続可能で公正な社会

顔の見えるコミュニテイ地方自治体をベースに信頼回復の道を目指すことで、人々の想像力は大きく広がり、価値観を変えていく。

おわりに ~ 歴史を終わらせないために

“マルクスの脱成長論なんて正気か”

3.5の人々が本気で立ち上がると社会が大きく変わるという。

1986年「ピープルパワー革命」フイリピンのマルコス独裁打倒革命

2003年「ばら革命」グルジアのシュワルナゼ大統領を辞任させた

ニューヨークウオール街占拠運動、バルセロナの座り込み

グレタ・トウーンベリの学校ストライキはたった一人の実行から。

資本主義と気候変動に本気で関心を持ち、熱心にコミットメントしてくれる人々を3.5%集めるのはなんだか出来そうな気がしてこないだろうか。

1%の富裕層、エリート層が好き勝手にルールを変え自分たちの価値観に合わせ社会の仕組みや利害を作り上げてきた権力に対して、そろそろ「NO」を突きつけようではないか。冷笑主義を捨て、99%の力を見せつけてやろうではないか。そのためには先ず3.5が動き出すのが鍵である。

以上


 [中尾1]